甘糟りり子の「鎌倉暮らしの鎌倉ごはん」Vol.13/【バード】バ―
「誰にも教えたくないお店」は、ときに自分の大好きな人を「一番に連れていきたいお店」になったりします。甘糟さんのそんな場所は、片瀬江ノ島駅のロータリ前にある、なんてことない外観のバー。週末だけオープンするその扉を開けると、一気に心地よい別世界へ誘われます。そこには東京に無い、肩の力が抜けた上質な時間が流れていました。
「明るくて悲しい」バーで、時を飲む
海岸沿いで空と海を撮影するのが日課です。インスタグラムには「#本日の空と海と江ノ島」というハッシュタグでその写真を載せております。同じような景色でも毎日少しずつ違うんですよ。季節、天気、時間帯によって、空や海の色とか質感とかが変わってくる。それによって江ノ島の表情も違うのです。
店の場所を探すとき”水の見える場所”にこだわったという店主。海に近い川の流れはゆったりとして落ち着く。
そんな江ノ島のほど近くにとっておきの一軒があります。
【Bar d】がそれ。バー・ディーではなく、バードと読みます。カウンターの向こうには白いバーコートを着たバーテンダーが立つオーセンティックなバーです。いわゆる正統派のバーだったら都会にたくさんありますが、ここは一味違います。窓の向こうに広がる片瀬川もその理由の一つ。水面を見ながら飲むウイスキーの水割りは格別です。バーという言葉の持つ良い意味での閉鎖的な空気がここにはない。バーらしい落ち着きがありながらも、海のそばらしい開放的な感覚が染み込んでいるのです。相反する要素が溶け合っているのがここの個性といえるでしょう。
バーの一番奥にある、テーブル席。15時からのオープンなので夕暮れの光のなかお酒を飲むこともできる
黄色い壁を伝っていくとガラスに鉄格子が貼られた重いドアに突き当たり、その向こうには軽やかで色彩豊かな空間が広がっています。ブルーグリーンの壁と大きな窓のステンドグラス、そしてラタンの椅子。窓から見える片瀬川の背後には江ノ島が佇んでいる。この景色って「明るくて悲しい」。店内はキューバをイメージして作られたそうです。
水割りは、ウイスキーと水、そして氷をミキシンググラスに入れて”ウイスキーを練る”ようにしてステアする。そうしてつくられた水割りは甘やかで、まろやかな味わい。
ここを訪れたら、必ず水割りを注文します。銘柄はいつもお任せ。
バーテンダーはバースプーンをゆっくりとていねいに回し、数分かけて水とウイスキーを一つのものにしていきます。それをミキシンググラスに入れ氷と一緒にまた回し、少し冷えた液体だけを小さなグラスに注いでくれるのです。グラスは優雅な曲線を持ったバカラのアンティーク。およそウイスキーの水割りに使われるようなタイプのものではなく、注がれた酒もそれまで私が見知っていた水割りとはまったく別の飲み物でした。
ウイスキーの水割り 1,000円~。この日は【カカオ・サンパカ】のピンクペッパーのチョコレートがおつまみで出された
ウイスキーのヴィンテージは、私が六本木のディスコで騒いでいた時代だったり、背伸びをして学生鞄にボーボワールの『第二の性』を忍ばせていた時代だったり、あるいは、サンタクロースにパンダのぬいぐるみをもらって喜んでいた時代だったりします。過去を水で溶かして味わう、そんな感じです。この味は六本木で遊んでいた頃にはわからなかった。
普段はよく、ナイトキャップに安いブレンデッドウイスキーに適当に水をぶち込んで夜を締めくくります。まあ締めくくれずに朝が忍び寄ってくることもたまにありますが、そういうウイスキーもそれはそれでおいしいし、楽しい。この味を知っているからこそ、プロフェッショナルが技と気持ちを込めて作った水割りの良さもわかるように思います。どちらも大好き。そこがウイスキーの魅力です。
1960年ころのウイスキー。「当時の人気銘柄は、やっぱり時が経ってもおいしいんです」と店主
オールドヴィンテージはウイスキーだけではありません。古いハードリカーがたくさん揃います。いつだったか、50年代と70年代と90年代のジンをステアしたマティーニを作ってもらいました。お酒って時を飲むものなのだなあとつくづく感じました。
必ず使ったお酒のボトルが目の前に置かれるのですが、そのどれもが本当に美しい。なんでもかんでも「昔は良かった」なんて年寄りじみたことはいいたくないですが、量産の手段や技術が今ほど発達していなかった頃は一つ一つに文字通り手がかけられていたのでしょうね。曲線に余韻があるのです。ぜひ、昔のお酒はボトル込みで味わっていただきたい。
『アレキサンダー』1,500円。カカオ分の高いチョコレートをゆっくり溶かし、生クリームでつくられる手が込んだもの。黒トリュフのマドレーヌとともに
いいお店を見つけたらつい人に教えたくなるのは、食べ歩き&飲み歩き人間の本能でしょうか。【Bar d】は、こうしたこだわりに自分よりも知識と関心のある人を連れて行きたくなります。「私だって、ちったあわかってるんですからね」という気持ちを込めて。品のないいい方をすれば、お店じゃんけんの切り札的な存在です。
なんですが、先日、それとは逆に、若いエディターの女子を案内しました。彼女、ワインばかりでウイスキーはほとんど飲んだことがないというではありませんか。気分はすっかり『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授。年齢を重ねると、たとえ安易な知ったかぶりでも教えたがるものなんですね。カウンターで得意気にウイスキーを語ってしまいました。
広い化粧室には大きなバスタブがあり、初めてそのドアを開けた人はきっと驚くだろう
化粧室にはそのお店の思想が染み込んでいるというのが持論ですが、ここも一見の価値ありです。友人知人を連れて行ったら必ずお化粧室を覗くように勧めています。しゃれた曲線の白いバスタブがあって、中にはマムの大きな6リットル・ボトルが横たわっています。私は80年代の東京を思い出したのですが、キューバのよくあるアパートメントのバスルームがイメージなんだそう。
店名のバードはチャーリー・パーカーのあだ名から。店主はサックスも嗜むジャズ好きなのです。カウンターの向こうには、レコードプレーヤーがあり、流れている音楽はすべてレコードです。音にも昔のボトルの曲線のような余韻がある。
「家具も、レコードも、お酒もヴィンテージのものが好き」という店主の田辺さん。バーにはそんな田辺さんの世界観があふれている
いってみればお酒を飲むのは無駄なこと。だからこそ、欲するんですよね。必要な栄養分だけでは心が弱ってしまいます。お酒を飲んだり、花を飾ったり、歌を口ずさんだり、恋愛の駆け引きでわくわくしたり落ち込んだり、人はそういうことで自分を人間たらしめている。そんなふうに思います。
さて、このお店のオーナーでバーテンダーの田辺武さんは、元々は銀座で開業されておりました。その道に詳しい方なら、「おっ」と思うお名前でしょう。今は、平日は中華街の【プレズ】、週末と祝日はこの江ノ島のカウンターに立たれています。と、最後に切り札を出してみました。
Bar d(バード)
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住所:神奈川県藤沢市片瀬海岸2-8-15
電話:0466-53-9099
営業時間:15:00~24:00(土曜・日曜・祝日のみ)
定休日:月曜日~金曜日 -
著者プロフィール
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甘糟りり子
作家。1964年横浜生まれ。3歳から鎌倉在住。都市に生きる男女と彼らを取り巻く文化をリアルに写した小説やコラムに定評がある。近著の『産む、産まない、産めない』(講談社)は5刷に。そのほか『産まなくても、産めなくても』(講談社)など現代の女性が直面する岐路についての本や、鎌倉暮らしや家族のことを綴ったエッセイ『鎌倉の家』(河出書房新社)など好評発売中
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