甘糟りり子の「鎌倉暮らしの鎌倉ごはん」Vol.16/【ブラッスリー シェ・アキ】フレンチ
小さいころに家族で食べたよそゆきの味。初めて体験した未知の味。そんな記憶が残るお店では、ついついいつものメニューを頼んでしまいます。それは料理を通して大切な思い出をもう一度味わいたいという、人間の本能なのかもしれません。長く鎌倉に暮らす人なら知らない人はいないフランス料理の名店【丸山亭】が閉店し、その支配人が由比ヶ浜通り近くにオープンしたこちらの店は、甘糟さんにとってそんな記憶の追体験を味わうプレシャスなお店です。
記憶に馴染んだいつもの味が、また新しい記憶を作ってくれる
母に膵臓癌が見つかったのは、母の誕生日の直前だった。昨年の夏のはじめのこと。検査を担当した医師がすぐに執刀医の手配をしてくれて、告知から約二週間後には開腹による大きな手術をすることになった。八十四歳の誕生日前の週末は、入院の準備であわただしく過ごした。
いつも散らかしっぱなしの母だが、自分の身の回りのものを簡単に整理したいという。自宅に戻れるのはいつになるかわからないから、といわれた時は返答に詰まった。体調によっては、段差の多いこの家での生活は再開できないかもしれないと私は思っていた。入院の準備はおおよそ整い、夜は外で食べることになった。
「何が食べたい?」という私の問いに、母はこう答えた。
「渡部さんのところに行きたいわ」
オーナー・渡部さんが30年働いていた【丸山亭】の閉店後に息子さんの名前を取ってオープンした【ブラッスリー シェ・アキ】。
渡部勝さんは【ブラッスリー シェ・アキ】のオーナー兼支配人。なのだけれど、私と母にとっては「丸山亭の渡部さん」でもある。【丸山亭】が閉店してしまった今でも。
【丸山亭】は私が高校生になったばかりの1980年、紀ノ国屋のはす向かいに開業した。鎌倉で初めてできた本格的なフランス料理の店で、私たちの行きつけの店だった。誕生日やお祝い、節目の日は【丸山亭】が多かった。私は、カビのついたチーズも鳩も鴨も、ここで初めて口にした。人生初の赤ワインを選んでくださったのは渡部さんだった。
渡部勝さん。25歳で飲食業界に入り、アンドレ・パッション氏、ジャック・ボリー氏などともに働き、渡欧してワインを学んだ
2013年に父が亡くなり、年が明けると【丸山亭】オーナーの丸山さんが亡くなり、春になると【丸山亭】は閉店した。その年の夏、支配人の渡部さんがそこからほど近い場所に開業したのが【シェ・アキ】である。シェフをはじめとするスタッフがそのままこちらの店に移った。丸山亭時代より少しカジュアルになって、ワインバーとして使えるカウンター席がある。
渡部さんが選んでくれた3本。「自分が好きな作り手ばかりです」左から『シャトー・トロワ・クロワ2012』7,800円、『ラ ヴィエイユ フェルム スパークリング レゼルヴ』5,500円、『シャトーヌフ・デュ・パプ 2015』18,000円
その夜、母と私が店に入ると、いつものようににこやかに渡部さんが迎えてくれた。母が手術のことを告げると驚き、表情が一瞬こわばった。
母は数年前にも肺癌になり、それは克服した。父は、直腸と胃とリンパの癌、肝臓の癌を患ったが、亡くなったのは老衰だった。そんな経験から、今時、癌だから終わりでは決してないことはわかっているけれど、膵臓癌はむずかしい癌である。こうして母が外食を楽しむのは最後になるかもしれない。
『海の幸のサラダ仕立て』松葉漁港直送の魚と、三浦の契約農家から届く野菜を彩り良く盛り込む。1,800円。
父が好きだった『前菜の盛り合わせ』、『海の幸のサラダ仕立て』、『キャレダニョー』を注文した。『キャレダニョー』はパセリが刻まれたパン粉と一緒に焼かれた仔羊。私は、羊の肉も【丸山亭】で初めて食べた。
斜め向かいのテーブルには、小学生と中学生ぐらいの女の子二人とその両親が食事を楽しんでいた。女の子は、皿が運ばれる度に、これなあに?と両親にたずね、緊張と期待に満ちた表情で味わっている。
「りり子の子供の頃みたいね」
母が懐かしそうにいった。その一言で、父も母も健康で、私がまだ若者だったあの頃の光景をたくさん思い出した。
仔羊を食べる時、グラスの赤ワインを頼んだ。昔と同じように渡部さんに赤ワインを選んでもらい、香ばしい仔羊を口にする。父がしていたように、デザートの前にはチーズの盛り合わせも楽しんだ。正直いうと、楽しむなどという心境ではなかったが、楽しもうとした。あの頃にように。
『チーズプレート』2,800円。”カマンベール・カドス”や、”フルム ダンベール(ルドルフ熟成)”など食べごろのチーズをカットしてくれる。合わせたワインは『ジャン・バティスト』7,500円
店を出る時、母は渡部さんにいった。
「元気になって、また来ますね。渡部さんもお元気で」
それから十日後、母は膵臓を三分の一と十二指腸を摘出して、二ヶ月半入院した。二度も吐血をして危ない場面もあったが、輸血で助かった。退院したけれど、ベッドに寝ていたせいで足腰が弱り、家の居間で転んで右手を骨折してしまった。外食どころか箸も握れず、普段の食事もままならなかった。それでも、癌の告知から半年たった年明けの頃には、一人で散歩に出かけられるようになった。家の前の坂道を用心しながら下って、お茶を飲んだら時々休みながら上り、帰ってくる。
『キャレダニョー骨付き』2,100円。アンドレ・パッション氏直伝のレシピで焼き上げる。骨付きを希望の場合は要予約。
全く元の生活に戻れたわけではないけれど、先日、半年ぶりに母と一緒に【シェ・アキ】に行った。渡部さんが前と同じように迎えてくださって、結局、また、『海の幸のサラダ仕立て』と『キャレダニョー』を注文した。どうやら、家族の記憶という調味料が【シェ・アキ】の皿にはかかっているようだ。
ここに来ると、つい、いつも同じオーダーをしてしまう。来る時は、新しいメニューも試したいと思っていても、席に着くと、やっぱりいつものものにしよう、となる。でも、それがいいのだ。
目新しいこと、めずらしいこと、凝っていることばかりが楽しいわけではない。記憶に馴染んだいつもの味が、また新しい記憶を作ってくれる。「予約が取れない」というフレーズに踊らされるのが恥ずかしくもなる(そういうのも嫌いではないけれど)。
FOODIEと呼ばれる人たちが競うように席を埋める流行りのレストランにはない落ち着きがここにはある。
ブラッスリー シェ・アキ
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住所:神奈川県鎌倉市由比ガ浜1-1-30
電話:0467-24-2452
営業:Lunch 11:30~14:00(LO)
Dinner 17:30~20:30(LO)
Bar 17:00〜21:30(LO)
定休日:月曜日 ※祝祭日は翌日 -
著者プロフィール
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甘糟りり子
作家。1964年横浜生まれ。3歳から鎌倉在住。都市に生きる男女と彼らを取り巻く文化をリアルに写した小説やコラムに定評がある。近著の『産む、産まない、産めない』(講談社)は5刷に。そのほか『産まなくても、産めなくても』(講談社)など現代の女性が直面する岐路についての本や、鎌倉暮らしや家族のことを綴ったエッセイ『鎌倉の家』(河出書房新社)など好評発売中
毎日読み物が更新されるウェブサイト「よみタイ」でも連載中
【ブラッスリー・シェ・アキ】
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電話:0467-24-2452
住所:鎌倉市由比ガ浜1-1-30
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