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甘糟りり子の「鎌倉暮らしの鎌倉ごはん」Vol.15/【カフェ ロンディーノ】カフェ

昔から地元の人に愛され、街の風景の一部としてしっくりなじんでいるお店は、その街の宝物かもしれません。鎌倉駅のすぐそばで朝8時から、丁寧にいれたコーヒーを出す【カフェ ロンディーノ】もまさにそんなお店。甘糟さんが中学生の頃から通い、大人になっていく人生の様々なシーンに登場する、甘糟さんにとっても宝物のようなお店なのです。

人生で一番通っている、思い出が詰まった喫茶店

 朝が苦手なのは子供の頃からである。というより、子供の頃から夜が好きだった。夜になると、今日がずっと終わらなければいいなあと思う。畳まれていく一日を名残り惜しむのが心地良かった。

 中学生になると、布団にくるまってラジオの深夜放送を楽しみ、窓の外の空が白っちゃけてくるのを見るのが日課となった。そんなふうだから、朝が弱くて、しょっちゅう遅刻をした。学校からも度々注意を受け、母は大変だったと思う。毎朝なかなか起きない私の腕を引っ張って起こし、朝ご飯を食べさせる。稲村ヶ崎駅7時48分発の江ノ電に乗らなければならないのに、7時半になってもまだパジャマでご飯を食べているという体たらく。

 ある朝、母が叫んだ。

「もう、ご飯はあきらめなさいっ。一回ぐらい朝ご飯を抜いたって、死にゃあしない。自分が悪いんだから」

 私は渋々、一口だけでご飯茶碗を置いた。

    江ノ電の駅隣接ながら、店内は常連が思い思いにくつろぐ静かな時間が流れる。

 まだぼんやりしている頭のまま江ノ電に乗った。頭はぼんやりなのに、空腹の感覚だけは鮮明だった。鎌倉駅西口に出たとたん、お腹がぐうっと鳴った。学校への道から外れ、ロータリーの左側にある【ロンディーノ】に向かった。朝、8時から開いていて、出勤前のサラリーマンもよく利用する。

 細く潰した学生鞄とスヌーピーが描かれたトートバッグを抱え、店に入った。注文は『トースト』と『ブレンド・コーヒー』。一人で外食をするのは生まれて初めてだった。店内はスーツの人やジーンズ姿の人で埋まっていて、たいてい一人だった。学校の制服なんか着ているのは私だけだ。最初は緊張したけれど、こげ茶色に焼かれた厚めのトーストが運ばれてくるとそんなものは吹っ飛んだ。表面にはバターがたっぷり染み込んでいる。かぶりつくと、お腹と心がバターで満たされた。

    『ブレンドコーヒー』350円。注文が入ってから一杯ずつサイフォンで煎れる。「アルコールランプのサイフォンはガスと違って味が丸くなるんです」と店主の沖喜八重さん。

 コーヒーには、砂糖を少しと、小さなピッチャーの入ったミルクも入れた。今まで、コーヒーって苦いだけじゃん、と思っていたけれど、苦味っておいしいものなのだと気がついた。窓からは江ノ電の鎌倉駅が見える。私が乗ってきた次の電車が来てもまだ、私は店内に漂うコーヒーの香りに包まれていた。新しい発見に興奮したまま、江ノ電を二本見送った。一時間目の授業に遅れ、先生に叱られたけれど、わくわくした気分は夜になるまで消えなかった。

【ロンデイーノ】は、1967年創業のカフェ。小さなコーヒースタンドからスタートして、サイフォンで淹れる本格的なコーヒーが評判となり、店舗を広げて今の形となった。

    カウンターには一人客がひっきりなしに訪れる。目の前のサイフォンで入れるコーヒーができあがる様を見ているだけでも飽きない。

 当時はまだ珍しかったコーヒー豆の量り売りもしていて、母はよくここでコーヒー豆を買った。私も一緒に来て、一息ついて帰ることもあった。私が注文するのはたいていプリン。硬めでしっかりとした味わいのプリンが食べたくて、母の買い物について行きたがった。

 その店に、初めて一人で来て自分で会計をすませるのは気分が良かった。

 すっかり味をしめて、私は時々ここで朝食を食べてから学校に行った。参考書を買うから、読みたい本がある、とかなんとかいってお小遣いをせしめた。お金は、参考書の代わりに【ロンディーノ】のトーストやコーヒー、スパゲッティになった。

    人気のプリン(380円)は自家製。パティシエでもある店主が毎日つくっている。

 その名も『スパゲッティ』というメニューがある。具は薄くスライスしたマッシュルームだけ。それをケチャップとミートソースで絡めてある。ナポリタンのようにはなやかではなく、潔いほどシンプルで、そこが気に入っていた。他には『ツナトマト』や『カレースパゲッティ』があるけれど、私はこれ。

 ある時、急いで食べて、制服の白いシャツに赤い染みを作ってしまった。先生に、学校に来る前に【ロンディーノ】に寄っていたことがバレるのではないかと不安になった。

 大人になった今でも、時々、この赤い『スパゲッティ』を頼む。焦がしたケチャップの酸味とミートソースのほのかな甘みがそれぞれ独立していて、心の中で溶け合うのだ。「甘酸っぱい」というのとはちょっと違う。食べる度に学校をさぼった時の気持ちを思い出す。グルメとか美食などといわれるものではないけれど、記憶が重なって成り立つ格別の味覚だ。

    フードメニューも57年間ほとんど変わらない。こちらの『スパゲッティ』700円(350円のドリンク含む)も創業当時からのメニュー。

 鎌倉駅に近いので、編集者との打ち合わせや待ち合わせに使うこともある。先日は、先に来ていた友達が私が着くなり、こういった。

「今どき、ここまで煙もくもくの空間もめずらしいね」

【ロンディーノ】は今でも開業当時と同じように、喫煙可なのだ。分煙ではなく、全席OK。喉が弱い私は煙草の煙も匂いも苦手だけれど、すべてのバーと【ロンディーノ】ではなぜか気にならない。煙草の煙もインテリアの一つ、と受け止められてしまう。

 五年前に亡くなった父はヘビー・スモーカーで、家族での外食の際、集合場所はいつも【ロンディーノ】だった。必ずコーヒー一杯と煙草を二本。レストランに行く前の儀式みたいなものだ。父が煙草を吸い終えるのを待つ時間から、その夜が始まった。

 鎌倉にはどんどん新しい店ができているけれど、【ロンディーノ】のような思い出が置いてある店にはいつまでも変わらずそこに在って欲しい。

    店内の家具も内装も57年前から変わらない。ゆっくりと年月を経た味わいを感じる内装。

カフェ ロンディーノ

  • 住所:神奈川県鎌倉市御成町1-10
    電話:0467-25-5177
    営業:8:00~22:00
    日・祝 8:00~20:00
    定休日:水曜
    予約不可

著者プロフィール

  • 甘糟りり子
    作家。1964年横浜生まれ。3歳から鎌倉在住。都市に生きる男女と彼らを取り巻く文化をリアルに写した小説やコラムに定評がある。近著の『産む、産まない、産めない』(講談社)は5刷に。そのほか『産まなくても、産めなくても』(講談社)など現代の女性が直面する岐路についての本や、鎌倉暮らしや家族のことを綴ったエッセイ『鎌倉の家』(河出書房新社)など好評発売中

毎日読み物が更新されるウェブサイト「よみタイ」でも連載中

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