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更新日:2017.12.01食トレンド デート・会食 連載

故郷滋賀の田舎料理を美しく昇華させる、型破りの料理人【銀座しのはら】篠原武将さん/シェフのヨコガオ

日本全国から予約が殺到した滋賀県の日本料理店【しのはら】が銀座に移転して1年。どこでやろうと「誰かの料理は真似できない。自分の経験を料理に変えていくだけ」という篠原武将氏。今、注目の料理人がたどってきた半生とこれから描く未来に迫った。

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口から出まかせで言った言葉から、料理人の道へ

    1月の献立から。正月にちなみ、ウニ、アワビ、ボタンエビなど7種の素材を7つの宝とかけて仕立てる『七宝盛り』

――篠原さんは小さい頃から料理人になりたいと思っていたのですか?

小さい頃は親に「料理人になりたい」と言っていたようですが、進路を決める高校3年のときには、まったく思っていなかったです。僕は、学生時代ずっと空手ばかりやってました。結構成績が良くて、特待生として大学進学の話が来たんです。けれど、空手って痛いじゃないですか!? というか、痛いんですよ(笑)。大学に行ってまで辛い思いをしたくないな、と思って咄嗟に先生に“自分は職人になります”って口から出まかせで言っちゃった。職人といって頭に浮かんだのが父の姿でした。父親が居酒屋を経営していて、料理をつくっていましたから。で、先生から“なんの職人になるんだ?”と言われて“料理人です”って答えた。言ったからには職人にならないと、と思い、料理の道に入りました。

――料理人になると決意して、まずどちらで修業されたのですか?

最初は父親のつてで、大阪の【熊魚菴たん熊北店】に入り、働きながら料理の基本を学びました。学校にも通わせていただいて感謝しています。でも、1年で辞めたのは、あるお店との出会いがきっかけでした。当時は働きながら、勉強のためいろんなお店へ食べ歩いていましてね。あるとき京都の【桜田】さんに伺って、その料理に衝撃を受けました。仕事が細かくて、なにより一品一品が綺麗で……。自分もこんな美しい料理を作りたい。すぐに働かせてくれとお願いしたのですが、あいにく働き手は足りていて雇っていただくことはできませんでした。そこで、【桜田】のご主人、桜田五十鈴さんが修業されていたお店ならやりたいことが学べるのではと思い、その店に連絡をしたのです。

憧れの店に入店するも、2年で退社。そこから出会った料理の師

――すごい行動力ですね。そしてそこへ入られたのですか?

はい。念願かなって入ることができました。2年で向板の脇板までさせてもらった。でも、若気の至りで2年で辞めてしまったんですね。先輩方にも本当にご迷惑をおかけしました。その頃は、生意気にも10年経ったら海外でやるんだ、なんて話したりしていました。

    今年37歳の篠原さん。料理人人生20年目を迎える

――辞めて無職になった後、次のお店で働くきっかけはなんだったのでしょう?

辞めてから、どうしよう、と思っていたときに、父親が現在京都にある【山玄茶】の大将に市場で偶然会って「息子が辞めてぶらぶらしている」と何気なく話をしたんです。そしたら「半年でも一年でも働きにこんか?」と言ってくれて。そこから26歳の終わりまで働かせていただきました。
 この店での経験が、一番自分に影響していると思います。大将がとにかく“お客様を喜ばせる”ということを大事にしていました。たとえば、席が空いていればフリのお客さんも取る。さらに入ってきたお客さんがその月二回目の方だったりすると、その場で仕込みが一から変わる。厨房はバタバタでそりゃもう戦場ですよ。でも、それ以上にお客さんに喜んでもらうものを作ろうという気持ちにはとても影響されました。器使いという点でも、勉強になりました。大将には「なんでも偏ったらあかん。好きなものだけ揃えんと、バランスをとって買いなさい」と教えていただきました。器好きになって、いろいろと揃えていますが、今でも教えてもらったことを自然と実践しています。

    オールドバカラの酒器をはじめ、料理をひきたてる数々の美しい器も【銀座 しのはら】の魅力

滋賀に戻り27歳で開業。10年ごとに訪れる人生の転機

――そして、料理人の修業をして10年目。27歳で故郷の地で一軒家の料理屋を構えた。若くしてすごいことですね。最初からどんな店にしようか、というイメージはあったのですか?

すごくないです。父親が勝手に土地と家を買って「戻ってこい」と言ってきたんですよ。【山玄茶】では調理主任をやらせてもらっていたし、“これからやな”なんて自分で思っていた矢先だったんでいい迷惑です(笑)。正直、「え!?」と思いました。でも、こうして思いがけないタイミングで自分の店を持ったのですが、やるなら「コース一本の懐石料理をやるんだ」ということは最初から決めていました

――地元には、懐石料理を出すようなお店はほかにもありましたか?

まったくありませんでした。だから初め、地元のお客さんがきてくれたときにいろんな戸惑いがありました。たとえば、懐石料理なので1品ずつ料理を出したら、ぜんぜん箸をつけてくれない。「食べてください」って言ったら、「全部揃うまで待つよ」って言われて。「ああ、そういったことを伝えることから始めなければいけないのか」と少し途方に暮れましたね。でも地元でも法事や婦人会などがありますし、当初はそういう方々がお客さんになってくれるんだろうな、と考えていました。地元の人に喜んで食べてもらうためには、地元にはない珍しい食材、いいものを全国から取り寄せて楽しんでほしいと思いましたし、コースも、前菜、肉、魚というわかりやすい構成で料理を作りました。

    銀座の店は、客前で盛り込みなどするカウンタースタイルに

――そういう状況から、日本全国から予約が殺到する店になり、さらには東京進出! どうして東京へ移転されたのですか?

湖南市というのは、大企業の子会社が多くある場所で、会社の接待の場所として使っていただく機会が多く、3年目くらいから県外のお客さんが少しずつ増えていきました。インターネットの口コミも大きく、たくさんの方からご予約をいただくようになりました。全国からいらっしゃるお客さんに料理を出しているうちに、滋賀で9年店をやってきたけれど、もう一歩ステップアップしたいと思うようになった。それにはこの場所じゃ難しいかもしれない……と考えていたときに、東京からいらっしゃったお客さんから現在の物件の話があって。知らない土地でやりたい、とは思っていましたが、東京にこだわってはいませんでした。でも、見に行って、ここでやってみようとすぐに決めました。思い起こせば、料理の道に入って10年近くで店を持ち、滋賀で10年近くやって東京へ。本当にタイミングがいいというか、ご縁があったという感じです。

場所が変わっても、滋賀で生まれ育った自分が作る“田舎料理”の本質は変わらない

――滋賀と東京で料理のスタイルは変えていますか?

店のスタイルは座敷からカウンターに変わりました。ですから、料理以外のことでどう楽しませるか、ということにも心を砕くようになりましたし、場の雰囲気が硬いようだったら和ませることを考えたりします。料理についてはコースの構成は少し変えました。滋賀でやっていたときには、わざわざ来てもらうためにジビエや地のものを多く使っていました。けれどやはりここは日本で一番の町・銀座。食べにいらっしゃる方たちも食通の方たちが多いので、そういう人たちに自分の食べてもらいたいものを破綻なく食べてもらう構成を考えています。でも、僕の料理は“田舎料理”ですから。料理の根底には「町衆の料理」「精進料理」「茶懐石」の三つの種類がありますが、僕の料理は「町衆の料理」が根本にあります。

    【銀座 しのはら】の冬のご馳走は、地元滋賀の猟師が撃ついのしし

――美しい篠原さんの料理に“田舎料理”という言葉は結びつかないのですが。

田舎料理ですよ。なぜなら、料理というのは自分の経験から自然とでてくるものだと思うんです。僕は小さいころから祖母や母が作った茄子の炊いたものや川魚の焼いたものを食べて育ちました。子供のころから地元のイチジクやいのししも食卓に昇りました。そういう経験は無意識ににじみ出てくる。料理に使う食材は、昔から制限をつけずになんでも使いたい性質(たち)なので、フォアグラでもキャビアでもトリュフでも使います。和食に向かない食材といわれていても、その食材をいかに和食にするか、それが料理人の腕だと思いますから。お客さんが喜んでくれるのであれば、何でもいいんです。“こういう料理じゃなきゃつくりたくない”という気持ちは一切ありません。でも、僕は誰の真似もできない。自分の中から出てくるものを形にすることしかできないんです。そういった意味では“型破り”かもしれません。たとえば八寸なんかも、滋賀の田舎の情景を自由に盛り付けています。自分を通して料理を考えたら、結局“滋賀の田舎料理”です。そう思ってみると、滋賀にいるときと、銀座で一年やってきた今でも、考えていることは変わりません。

    【銀座 しのはら】のクライマックス八寸はコース中盤に登場。八寸には滋賀の里山の情景を盛り込む。1月の八寸は、小肌とラフランスの和え物、胡麻白和え、玉子真丈、大徳寺麩の辛子黄身寿司、海老芋と才巻海老の唐揚げなど

――環境が変わっても自分のやってきた信念が変わらないって、できるようでできないことですよね。

ある意味、最初に滋賀にいたことがよかったのではないでしょうか。ほかにいろんな情報が入ってこなくて、自由にのびのびとやっていました。隣の日本料理店に行こうと思っても車で40分くらい走らないと行けない場所ですから。また、おかげさまで滋賀の時代から、「おいしいものが好き」という方が集まる店だったのですが、東京に来ても同じように「おいしいものが好き」な方たちが集まってくださる。そういうことで考え方を変えずにいられるのだと思います。
 結局は、自分が積み重ねた時間や、人を好きなったりする気持ちや、なにかを楽しいと思うような経験が自分の引き出しとなる。そして、そこから沸きあがってくるものが料理になる。それは変えられないです。自分でも次にどんな料理が出てくるのか、どんな引き出しが開くかわからない部分もあるんですよ。

    冬の『焼き物』は、旬を迎える『真魚鰹の幽庵焼き 青味大根の味噌漬け』。梅の花の器に盛り付けて

滋賀、東京、そして次は世界へ! 篠原さんが描く未来

――銀座でお店を出されて一年。これから、どんなことを目標にされますか?

次は世界進出! ニューヨークで店をやってみたいです。とはいえ、まだまだそんな余裕はありませんけれどね。東京に来た当初はほとんど寝る間もなくて、1年経った今でも振り返る余裕もないくらいです。実感としては自分も、働いている子たちも「身体が持ってよかった」とホッとするくらいですから。

    銀座出店の際の恩人に「しのはら」と書いてもらったという書が店内に飾られている。大胆で、勢いがあるこの作品のイメージと、型破りな篠原さんのイメージが重なる

――かつて宣言したとおり、やっぱり世界には打って出るんですね。

言われてみればそうですね(笑)。気がつきませんでした。自分のなかでは当たり前に“海外”というキーワードはあるので。でも世界一の町ニューヨークでいつかチャレンジしてみたいです。どうしても行きたい、というよりは真面目にやっていたらそういう話が自然と来るんじゃないかな、って思います。銀座の移転と同じように、機が熟したら自然にそういう流れがやってくるんだろうなってね。そして最後は田舎でのんびりやりたいですね。そのときには今のように新しい食材を開拓するというより、“地元の食材をどれだけ工夫して、どんな独創的な料理を作るか”ということに挑戦したいです。
(2017.10.12取材)

 

この記事を作った人

撮影/岡本裕介・鈴木拓也 取材・文/山路美佐(ヒトサラ副編集長)

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