甘糟りり子の「鎌倉暮らしの鎌倉ごはん」Vol.3/【かまくら 一平】日本料理
ゆったりとした独特の時間が流れる鎌倉。その街に暮らす作家・甘糟りり子さんが友人や家族と一緒に行きたい、とっておきのお店のことをエッセイでつづります。ここ数日のような寒波がやってくる寒い日には【かまくら 一平】のすっぽん鍋が食べたくなるという甘糟さん。由比ヶ浜通りに面した目立たない扉を開けば、京都で学び、骨董が好きというご主人・武村一平さんが醸し出す心地よい空間が迎えてくれます。きちんとした日本料理ながらどこか温かみがある、鎌倉らしい空気が流れる日本料理店での夜ご飯は身も心も満たされます。
鎌倉の日本料理のカウンターで考えた「ストック文化」と「フロー文化」
先日、尊敬する先輩方との会食で世代の話題になり、「ストック文化」という言葉が何度か出てきました。
ある一つの情報を、目の前の物事だけではなくその背景や過去なども含めて捉えるのがストック文化。情報を物語として扱うのですね。対してフロー文化は情報を現象としてのみ受け止める。そのままの形と大きさで楽しむわけです。一見、フロー文化の方が自由でポップで新しいもののように感じますが、本当に新しい物事はストック文化がなければ生まれません。新しいことをするには古いことを知らなければならないし、知らなければ何が新しいのかわからない。大げさに文章にしてみましたが、いたって当たり前のことでしたね。
正直なところ、「創作和食」という言葉が苦手です。地図でしか知らない遠い国の料理であればこちらもフロー文化的に捉えるしかないけれど、日本で生まれ育った私にとって、和食と称されるものはすべてストック文化、つまりは長い物語の中でしか接することができないのです。創作和食は接し方がわからない。
前置きが長くなりました。来る度に、きちんとした日本の料理を食べたなあと実感するお店があります。和食の良さを思い知るというか。由比ヶ浜通りにある【一平】がそれ。包丁専門店【菊一】の隣にあります。すばらしい研ぎをしてくれる包丁屋さんで、【一平】と【菊一】の並びは鎌倉に住んでいて良かったなあと感じる風景です。
カウンター9席だけの小さなお店ですが、天井が高く開放感のある空間です。カウンターの奥にある棚は、店主が骨董屋で扉だけを買いそれに合わせて作ってもらったそうです。その隣には乾物屋のものだったという物入れ。一つ一つにそれぞれの背景があって、きちんと溶け合っています。必要以上に「和」や「日本」を強調していないのがいい。
テーブルには予約札の代わりに、ブリキのおもちゃがおいてあります。
お料理は、先付け、お造り、お椀、焚き合わせなどのコース一種類のみ。最後の締めは、炊き込みご飯でも蕎麦でもなく鮨です。握りを五貫、最後は棒鮨。
こうして書き始めてみて、【一平】のすばらしさを具体的に言葉で伝えるのはなかなかむずかしいと気がつきました。こちらの個性は饒舌に語ることを良しとしないのです。どのお料理にも強い主張があるわけではないのに、一品一品がくっきりと美しい輪郭を持っている、といったらいいでしょうか。
店主の一平さんは鎌倉のお隣の逗子市出身。京都のたん熊で十八年間、修行されました。野菜は主に京都から取り寄せています。魚介類は特別なもの以外、相模湾のもの。種類が豊富な魚をよりたくさん味わえるように、コースの締めは鮨になったのです。刺身だけだと量が食べられないですから、とのこと。
微妙な季節の変化を舌で知るのは楽しいものです。【一平】では、春になるともろこ、初夏には鮎、その後は鱧の時期が続き、十一月初めに解禁になると香箱蟹を味わえます。このカレンダーを毎年めくれたらいいなあと思います。同じことを繰り返すのって贅沢ですよね。
昨年は鱧の時期に三回行ったのですが、三回とも別々の調理法でした。お鮨、お椀、それにフライなんていうのもありました。フライはウスターソースで味わいましたよ。一平さんによれば、鱧は100種類もの調理方法があるそうです。次のシーズンは、鱧の柳川を食べてみたい。
コース以外に、すっぽんの鍋や焼き魚のオプションがあります。一人前の鍋ですっぽんを出すのはたん熊のスタイルで、一年を通して注文できます。寒い時期はもちろん、暑い時期に汗をかきながら味わうのも悪くないです。
【一平】に来たからには名物のすっぽん鍋を毎回でも食べたいところですが、焼き魚にノドグロがあると私はそれを頼みます。この魚のおいしさは、脂ののった濃厚さと白身らしい淡白な味わいの絶妙なバランス。だからこそ、信頼できる料理人の元で味わいたいのです。
ちなみに、テニスの錦織圭選手が、2014年にシングルスでは日本人で初めてグランドスラムの決勝に進出して、惜しくも敗れましたが(私、テレビの前で張り切って応援しすぎて、過呼吸になりました・・)、アメリカから帰国した際に、何を食べたいかと聞かれ、「ノドグロ」と答えたことで一躍その名が知れ渡りました。私もその後、何かというとノドグロを食べておりますが、【一平】の焼き魚がマイ・ベスト・ワンです。ああ、これを錦織選手に食べさせたい!
時々83歳になる母を気にいった店には連れ出します。初めての店だと、たいてい帰り道に私に一つ二ついちゃもんをつけてきます。気に入ったがゆえの文句です。ストック文化の塊みたいな人ですから。その母が一平に連れて行った時には何も文句をいわず、褒めてばかりでした。
普段は夜だけの営業ですが、お正月の三が日は午前中から御節を出しています。今年の一月三日に母と行き、生まれて初めて「白味噌のお雑煮」を食べました。もちろん味はとってもおいしかったのですが、神奈川県生まれ&育ちの私にとってはどうしても「雑煮」という感じがしない。うちはずっと鴨か鶏のだしでした。どちらがいいとかではなく、その違いを楽しむのもストック文化かもしれません。
さて、お手洗いはそのお店の何かが垣間見れる場所だと思います。ここのお手洗いは垣間見れるどころか、店主の頭の中の一部がそのまま置いてありました。奥の壁いっぱいが本棚で、料理関係の本がずらりと並んでいるのです。「乾山の芸術と光琳」や「京味の十二か月」から「焼とり串かつ串料理」なんていうのもありました。辻嘉一さんの本もたくさん。「読みたい本がたくさんあります」というと、「家にはあの何倍も本があるんですよ」と一平さん。こんな会話ができるようになったのは、わりと最近です。何しろ寡黙な方ですから。それだけ料理に集中しているんだろうなあ。味わえば、わかります。
【かまくら 一平】
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住所:神奈川県鎌倉市由比ガ浜1-3-7
電話:0467-25-2314(要予約)
営業:18:00~20:00(LO)
定休:火曜、不定休あり
平均予算:ディナー10000円~
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著者プロフィール
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甘糟りり子
作家。1964年横浜生まれ。3歳から鎌倉在住。都市に生きる男女と彼らを取り巻くファッションやレストラン、クルマなどの先端文化をリアルに写した小説やコラムに定評がある。近著の『産む、産まない、産めない』(講談社)は5刷に。そのほか『産まなくても、産めなくても』(講談社)など現代の女性が直面する岐路についての本も好評発売中。読書会「ヨモウカフェ」主宰。
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