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更新日:2019.08.30グルメラボ

【メゾン ポール・ボキューズ】20世紀最高のシェフの哲学を守り続ける総料理長 クリストフ・ミュレール氏にインタビュー

20世紀最高の料理人と言われた、ポール・ボキューズ。フランス・リヨン郊外に彼がつくった【レストラン ポール・ボキューズ】は、50年以上も三ツ星を獲得し続けている伝説の店だ。その精神が今も息づく美食の殿堂が代官山にあることをご存知だろうか。日本おける本店【メゾン ポール・ボキューズ】には、今でも定期的に現地から総料理長クリストフ・ミュレールシェフが訪れ、ムッシュポールの味と哲学を守り続けている。ミュレール氏にインタビューした。

メゾン ポール・ボキューズ

クリストフ・ミュレール プロフィール

1971年、フランス・アルザス生まれ。料理人の世界に憧れ、14歳のときにアルザスの三ツ星レストラン【オーベルジュ・ド・リル】のポール・エーベルラン氏の下で修業を始める。17歳からポール・ボキューズ氏に師事。その後、【タイユヴァン】、首相官邸での首相付き料理人などを経て、1995年に再び【ポール・ボキューズ】に戻る。2000年、史上最年少でM.O.F.(フランス国家最優秀職人賞)を受章する。現在は【ポール・ボキューズ】グループ料理部門の最高責任者を務める。ボキューズ氏の後継者として、氏が築き上げたフランス料理の哲学を守り続ける。

幼いころから憧れた料理界のスーパースター、ポール・ボキューズ

    リヨン【ポール・ボキューズ】の外観は、まるでお菓子の家のよう。付近のランドマークになっているレストラン

    リヨン【ポール・ボキューズ】の外観は、まるでお菓子の家のよう。付近のランドマークになっているレストラン

―ポール・ボキューズ氏との出会いはいつからですか?

クリストフ・ミュレール氏(以下ミュレール 敬称略):私が小さいころから、すでに有名なスターシェフでした。ボキューズ氏の写真がついたジャムが町のあちこちで売られていて、そこには「M.O.F.1961」(1961年はボキューズ氏がM.O.F.を受章した年)と書いてあったことをよく覚えています。私の記憶が正しければ、自分の顔写真を表に出して商品をつくっているのは彼がはじめてだったのではないでしょうか。とにかく子供時代から憧れていました。

 私が最初についたポール・エーベルランシェフとも友人同士で、よくお店に来られていましたね。いつもメルセデスで乗り付けて、オーラと迫力がすごかった。恐れもあったけれど、”このシェフと知り合いになりたい”と渇望していました。


    ポール・ボキューズ氏。1926年リヨン郊外コロンジュ・オ・モン・ドール村生まれ。【ラ・ピラミッド】フェルナン・ポワン氏の元で修業し、1957年生家のレストラン【ポール・ボキューズ】を継ぐ。1961年M.O.F.受章。1965年三ツ星を獲得。以降、財団、学校、ホテル、料理コンクールなどを次々と設立し、現代フランス料理の発展に全精力を傾けた

    ポール・ボキューズ氏。1926年リヨン郊外コロンジュ・オ・モン・ドール村生まれ。【ラ・ピラミッド】フェルナン・ポワン氏の元で修業し、1957年生家のレストラン【ポール・ボキューズ】を継ぐ。1961年M.O.F.受章。1965年三ツ星を獲得。以降、財団、学校、ホテル、料理コンクールなどを次々と設立し、現代フランス料理の発展に全精力を傾けた

―そんな憧れのシェフのもとで17歳にして働くことができたんですね。

ミュレール:エーベルランシェフのおかげです。「いいアルザスの子がいたら紹介して」、とおっしゃっているムッシュポールに私を推薦してくださり、働くことになりました。なぜ、“アルザスの子”を指名したかと聞いたら、戦争での体験があったからのようです。ボキューズ氏がアルザスで従軍していたときに重症を負い、そのときにアルザスの人々を見て、「まじめでしっかりと仕事をする」という印象を持ったと聞きました。

    【メゾン ポール・ボキューズ】のダイニング。ドレスアップして出かけたい、シックな内装。

    【メゾン ポール・ボキューズ】のダイニング。ドレスアップして出かけたい、シックな内装。

―でも、そんなに憧れていたシェフのもとで働けたのに、2年後には【タイユヴァン】に移りましたね。

ミュレール:当時の【ポール・ボキューズ】は、はっきりいって軍隊みたいに厳しかった。そこで、厳しさのなかであきらめずに物事に立ち向かうという精神性を学びました。経験を積むにつれ、当時、調理の細かい技術においてはトップだった【タイユヴァン】でテクニックを学びたいと思ったのです。そして実際にそこで様々な技術を身につけました。

―学んで、いろいろとキャリアを積んで、また【ポール・ボキューズ】に戻った。

ミュレール:【タイユヴァン】の後、シェフとして働いていたり、首相官邸付きの料理人になったりとキャリアを積んでいました。あるとき、ムッシュポール自身が私のパリでの評価を聞きつけて、自ら電話をくださったのです。「スーシェフのポジションを君のためにあけてある。僕は君が欲しい。」そう言ってくださいました。憧れのシェフにそう言われて、心から嬉しかったことを覚えています。もちろん、行かない理由はないですよね。それからずっとこの店で働いています。

創業以来50年以上変わらないメニューに込めた思い

―時代が変わっても、50年前とメニューをあえて変えない、ポール・ボキューズ氏は徹底していました。その方針は、クリストフさんも引き続き同じでしょうか?

ミュレール:そうですね。変わらないメニューと、一から新しくつくるメニューの二通りあります。新しくつくるメニューは、私一人で決めるのではなく。ほかのシェフと相談しながら、“ムッシュポールはこの一皿が好きか″ということを基準にしてつくっています。スペシャリテの『スープ・オ・トリュフ・ノワール・ヴェ・ジェ・ウ』、『ジャガイモをウロコに見立てたひめじのポワレ』『すずきのパイ包み焼き』などのスペシャリテはレシピを一切変えていません。

    スペシャリテ1:『ヒメジのポワレ ジャガイモのクルスティアン ウロコに見立てて』。日本では甘鯛を使用。薄くスライスしたじゃがいもをウロコに見立てた代表的な魚料理。フュメ・ド・ポワソンと白ワインをべ―スとしたソースとともに

    スペシャリテ1:『ヒメジのポワレ ジャガイモのクルスティアン ウロコに見立てて』。日本では甘鯛を使用。薄くスライスしたじゃがいもをウロコに見立てた代表的な魚料理。フュメ・ド・ポワソンと白ワインをべ―スとしたソースとともに

―時代が変わっていく一方、50年前のレシピを一切変えない、というのもすごいですね。

ミュレール:長い間メニューを一切変えないレストラン、というのは、もしかしたら私たちだけかもしれません。でも、この変わらないメニューを楽しみにされているお客様が大勢いらっしゃるのです。例えば、私たちのレストランで結婚式をされた人が、結婚記念日を祝いに毎年いらっしゃいます。そうしていつも同じメニューを召し上がる。お客様の思い出に寄り添う。そこが大事なんです。

―しかし、ポール・ボキューズ氏は、1970年、それまで進化していなかった古いフランス料理の世界に「ヌーベル・キュイジーヌ」という新風を巻き起こし、変化させた改革者でした。

ミュレール:ムッシュボキューズの考えがわかるエピソードを紹介しましょう。ムッシュは自身のレストランをオープン以降世界一周を10回近くしています。つまり、あらゆるものを食べつくしている。世界中の星付きシェフたちが、日本をはじめ、世界を飛び回り新しい発見をしてメニューに取り入れているなか、留守を預かっていた私が「ムッシュボール、いかがでしたか?」と聞いても、「楽しかった。でも私自身は何も変えないよ」と答えていました。ムッシュの言葉『私にとっての変化は、なにも変えないことだ』それがすべてです。

    スペシャリテ2:『オマール海老のサラダ仕立て ア・ラ・フランセーズ』。さっとゆでたオマール海老に、オーロラソースを華やかに盛り付けて。素材のおいしさ、風味を生かした一品

    スペシャリテ2:『オマール海老のサラダ仕立て ア・ラ・フランセーズ』。さっとゆでたオマール海老に、オーロラソースを華やかに盛り付けて。素材のおいしさ、風味を生かした一品

―みなさん、【レストラン ポール・ボキューズ】の”スペシャリテ”を楽しみにいらっしゃるんですね。

ミュレール:そうですね。【レストラン ポール・ボキューズ】以外の有名シェフのスペシャリテは?と聞かれて、すぐに思い浮かびますか? それが私の答えなんです。我々のレストランには、世界中の人々が”この一皿が食べたい”と集まってくる。若いゲストが「父親が『フェルナン・ポワンの舌平目』がおいしいと言っていたから食べたい」とやってくるのです。おそらくこんなレストランはこの時代に他にないでしょう。誰も真似ができないことなのです。

    スペシャリテ3:『1975年にエリゼ宮にてV.G.Eに捧げたトリュフのスープ』。ボキューズ氏が、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領からレジオン・ドヌール勲章を受勲した際に午餐会で提供した料理。400名同時にサーブするという難題を、日本のお椀をヒントにパイで蓋をすることで熱いスープを提供した。45年経った今でも、これを目当てに世界中からゲストがやってくる一番の人気メニュー。

    スペシャリテ3:『1975年にエリゼ宮にてV.G.Eに捧げたトリュフのスープ』。ボキューズ氏が、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領からレジオン・ドヌール勲章を受勲した際に午餐会で提供した料理。400名同時にサーブするという難題を、日本のお椀をヒントにパイで蓋をすることで熱いスープを提供した。45年経った今でも、これを目当てに世界中からゲストがやってくる一番の人気メニュー。

「私は、ポール・ボキューズ氏の哲学を守る門番なのです」

―50年以上三ツ星を獲得しているレストランの総料理長として、その星を維持しつづけるプレッシャーはありますか?

ミュレール:プレッシャーはあります。むしろ、それがすべてです。私は今まで三ツ星レストランばかりで経験を積みました。ミシュランの三ツ星を気にしなかったことは一度もありません。50年以上三ツ星をキープしているのは【レストラン ポール・ボキューズ】ただ一軒だけなのです。ムッシュポールは、ほかにも財団やブラッスリーなども残しました。レストランのブランドとしてここまで広く成功している例はほかにはないと自負しています。フランスの小学校の教科書にも【ポール・ボキューズ】は登場しますから。

 このプレシャーはポジティブな面で原動力になっています。これがないと続けられないでしょう。毎朝チームでブリーフィングをするときに「私たちはプロです。プロとしてデモンストレーションをする、それが仕事なのです」と必ず声をかけます。外科医が完璧な手術をしないといけないのと同様、完璧な料理をつくらなければならないのです。

    クリストフ・ミュレール氏、日本のポール・ボキューズグループ統括シェフ・中谷一則氏(右隣)と日本各店のシェフたち。ミュレール氏は年に一度は来日し、各店で料理指導、代官山や金沢でガラディナーを開催する

    クリストフ・ミュレール氏、日本のポール・ボキューズグループ統括シェフ・中谷一則氏(右隣)と日本各店のシェフたち。ミュレール氏は年に一度は来日し、各店で料理指導、代官山や金沢でガラディナーを開催する

―ミュレールさんが思う、【レストラン ポール・ボキューズ】の魅力とはなんですか?

ミュレール:この店はね、不思議なことが起こる魔法にかけられたレストラン。世界中からいらっしゃるどのゲストも皆満足されて帰ります。料理、サービス、すべてにおいて口では説明できない”なにか特別なもの”が確実にあるのです。皆、それを楽しみに何度も足を運ばれる。美食の殿堂であり、美食の魂が宿る場所なのです。

    【メゾン ポール・ボキューズ】の個室。ここには非日常の時間が流れる

    【メゾン ポール・ボキューズ】の個室。ここには非日常の時間が流れる

―昔とは格段に変化の速い時代。シェフが考える未来の食、そして未来の【レストラン ポール・ボキューズ】についての考えを教えてください。

ミュレール:フランスにおける一般的な食生活、という意味では、今の時代食べすぎなのではないかと思います。また、食生活が単調になっていると思います。健康のためにはより食べる量を減らして、食べるものに注意を払う必要がありますね。

 未来の私たちのレストランには、ムッシュポールの哲学をしっかりと継承していくことが大切だと考えています。それは、料理のレシピや技術だけではありません。たとえば、ムッシュポールは、物や食材をとても大切にする人でした。壊れない限り新しい調理機器は買わなかった。また、まかないで誰かがパンを残したことがありました。そのときに「これは誰のパン?」と聞いた。「僕のです」と答えた人に、「全部食べなさい」と声をかけた。パンの端切れ一つでも無駄にしない。そうした考え方を含めたすべてが【レストラン ポール・ボキューズ】なのです。ムッシュポールの亡き今、私たちは彼の哲学を守る”門番”(ガーディアン)なのです。

ポール・ボキューズのスペシャリテが食べられるのは、世界でもリヨンと代官山と金沢だけ
【メゾン ポール・ボキューズ】

2007年6月、【レストラン ポール・ボキューズ】の日本における本店として東京・代官山に誕生した【メゾン ポール・ボキューズ】。日本のポール・ボキューズグループ統括シェフ・中谷一則氏の監修のもと、入砂俊重氏が料理長を務めている。重厚なエントランス、ティファニー製のステンドグラスやアンティークのファニチャーに彩られた重厚な空間で、リヨン【ポール・ボキューズ】と同じスペシャリテが食べられる。ボキューズ氏の哲学に基づき考案された、日本だけのオリジナル料理も登場。

【メゾン ポール・ボキューズ代官山】の店舗詳細・予約はこちら

この記事を作った人

山路美佐(ヒトサラ副編集長)

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