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更新日:2019.12.20連載

甘糟りり子の「鎌倉暮らしの鎌倉ごはん」最終回/【日本料理 吟】日本料理

人の縁とは不思議なもの。思いもかけないつながりから、新しい楽しみがひろがっていきます。甘糟さんが最近よく足を運ぶ日本料理店は、そうした不思議なご縁を感じるお店。鎌倉らしい静かな山あいで、日本全国から集めた最上の食材で客をもてなしています。まだ、2019年4月にオープンしたばかり。ここでの食事を目当てに、わざわざ鎌倉を訪れたくなるお店です。

日本料理吟

ご近所に誕生した、最近贔屓の日本料理店

 近所に、山ひとつを庭にした邸宅があった。

 山のてっぺんに立つ家の主は循環風呂で財を成した方で、山の中腹にはゆったりとした露天風呂もあった。庭には滝が流れていた。露天風呂を沸かすとうちにも連絡をくださり、私と母はタオルを持って出掛けた。流水の音を聞きながら、森の中の露天風呂を楽しんだ。

 その後、事情があって邸宅を手放し、一家で東京に引っ越された。

 邸宅は広さゆえか、なかなか買い手が決まらなかった。黒塗りのハイヤーや真っ白なメルセデスが乗り付けられたり、タレントが別荘を買うといった主旨のテレビ番組のロケがあったりした。所有の不動産屋が変わったのか、入り口に物々しい柵が建てられた時期もあった。どんな人が買うのかと不安になった。

    門をくぐると”日本料理”というジャンルからは意表をつかれる洋館が現れる

    門をくぐると”日本料理”というジャンルからは意表をつかれる洋館が現れる

 ある年の春。インターフォンが鳴って、画面にはお見かけしたことのある顔が映った。

「近所に越してきましたので、ご挨拶を」

 よくテレビや雑誌で見かけるドクターの南雲先生だった。あの邸宅を別荘として買われたという。度々いらっしゃるようで、週末に稲村ヶ崎駅前でばったりお会いすることもあった。立ち話で、海近く特有の塩害と山ならではのカビが大変だとこぼされていた。子供の頃から住んでいる私にとっては標準装備だけれど、鎌倉に越してきた人はたいてい、最初に塩害とカビに悩まされる。
 
 その年の夏、またインターフォンが鳴って、画面には南雲先生が映った。居間でお茶を入れながら、私は内心、早々に鎌倉を引き上げてしまうのだろうかと思った。ところが、
「ご報告がありまして。あの家で日本料理の店をやることになりました」

 急須を落としそうになるほど、びっくりした。

    大分の職人、後藤仁五氏の大胆な「鏝絵(こてえ)」が印象的な、カウンターメインの店内

    大分の職人、後藤仁五氏の大胆な「鏝絵(こてえ)」が印象的な、カウンターメインの店内

 月に一度来るぐらいではせっかくの家をダメにしてしまう、それなら、と店を始めることにしたそうだ。確かに、家は使わないとヘタっていくけれども、それにしても、お医者様がいきなり飲食店とは思い切ったものだ。
 南雲先生の専門は乳癌で、乳房再建の名手として知られている。食事による健康法の本もたくさん出されていて、ファンも多い。先生の驚異的な若々しさの秘訣も食事法にあるんだとか。母は六十代の先生をずっと三十そこそこの若者だと思っていた。その食事法にのっとった日本料理の店だという。

 それだけでなく、「これぞ日本料理という究極のお店にしたい」とのことだった。
 観光地の鎌倉とはいえ、この辺りはお寺もオーシャンビューもない住宅街である。正直なところ、本当に実現するのかしらん?と半信半疑だったが、約半年後の春、晴れて開店のご案内をいただいた。

 それが稲村ヶ崎の「日本料理 吟」である。

    佐々塚雅也さん。京都の料亭で腕を磨き、名古屋で日本料理店を営んでいた。そのころからのルートで、市場はもちろん、いい食材は日本全国から取り寄せる

    佐々塚雅也さん。京都の料亭で腕を磨き、名古屋で日本料理店を営んでいた。そのころからのルートで、市場はもちろん、いい食材は日本全国から取り寄せる

 料理人の佐々塚雅也さんは、南雲先生が名古屋で行きつけだった店でスカウトした。「海外の人にこれが日本料理と胸を張っていえるものを鎌倉で出したい。食材の予算に糸目をつけない」といって口説いたそうだ。

 言葉通り、ここには日本全国の選りすぐりの食材が集まってくる。長崎は五島列島のクエ、越後松葉蟹、淡路島の鱧、愛媛の鯛などなど。魚に詳しい人ならたいてい知っている「大森式流通」の大森さんから直接仕入れることもある。大森式とは、魚を脳殺させて、神経を抜き、放血させる処理の方法。石巻の大森さんはその発案者であり、魚の種類や大きさ、時期、発注主である料理人の好みに合わせて処理の仕方を調節する、量より質の漁師だ。魚のケースには「船上放血神経〆」と書かれたステッカーが貼ってあり、日付&時間も記されている。

    コースのお椀がわりの、スッポンの鍋。肉厚の阿波のしいたけをはじめ、食材は最上のものを使う

    コースのお椀がわりの、スッポンの鍋。肉厚の阿波のしいたけをはじめ、食材は最上のものを使う

 最初に吟に行った時、船上放血神経〆をした鰆を蕗味噌で食べた。生々しさに驚いた。その日のお造りは昆布締めにした平目。醤油ではなく、パンプキンシードオイルと肝を溶いたソースで味わった。どちらも素材の味わいが舌に染みた。減塩は健康のためというより、味覚のためなのだと思った。

 牛なら信州か宮崎、野菜は京野菜と三浦野菜。ここに来ると、改めて日本の食材の幅広さに感嘆する。先日は、有明海の新海苔の天ぷらに北海道の雲丹が乗って供された。お互いが引き立てあっていた。

    「ウニ、お好きでしたね」と客の顔を見ながら、好みのものを阿吽の呼吸で出すなど、ゲストを楽しませるのに心をくだく

    「ウニ、お好きでしたね」と客の顔を見ながら、好みのものを阿吽の呼吸で出すなど、ゲストを楽しませるのに心をくだく

最後の締めは季節の具材を使った発芽玄米の炊き込みご飯。南雲先生の食事法に沿って精製した白米は使わない。

 佐々塚さんがすごいのは、こうした食材でも決してやり過ぎないことだ。食材に敬意があるからだと思う。最近、FOODIE受けを狙って高級食材に高級食材を合わせるのが流行っているけれど、和牛やトロの薬味に雲丹やキャビアは必要ない。ああいった「ドヤ感」のなさを鎌倉らしい個性というのは地元びいき過ぎるだろうか。

    この日の炊き込みご飯は、『香箱蟹の土鍋ご飯』。甲羅を取ると、丁寧にほぐした身と内子が現れ、客前で混ぜてから出される。発芽玄米との相性も最高

    この日の炊き込みご飯は、『香箱蟹の土鍋ご飯』。甲羅を取ると、丁寧にほぐした身と内子が現れ、客前で混ぜてから出される。発芽玄米との相性も最高

 夜はコース一万五千円のみ。鎌倉ではトップクラスのお値段で、それだけの価値はある。まずは昼のお弁当で、という人も少なくないが、もったいない。「日本料理 吟」を知ろうと思うなら、ぜひ夜のコースを体験するべきだ。

【日本料理 吟】

  • 住所:神奈川県鎌倉市稲村ガ崎4-1-11
    電話:0467-84-7236
    営業:ランチ 11:30〜14:00(LO)、夜18:00~21:00(LO)
    定休日:水曜・第1火曜

著者プロフィール

  • 甘糟りり子
    作家。1964年横浜生まれ。3歳から鎌倉在住。都市に生きる男女と彼らを取り巻く文化をリアルに写した小説やコラムに定評がある。近著の『産む、産まない、産めない』(講談社)は5刷に。そのほか『産まなくても、産めなくても』(講談社)など現代の女性が直面する岐路についての本や、鎌倉暮らしや家族のことを綴ったエッセイ『鎌倉の家』(河出書房新社)など好評発売中

毎日読み物が更新されるウェブサイト「よみタイ」でも連載中

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