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更新日:2019.10.18連載

甘糟りり子の「鎌倉暮らしの鎌倉ごはん」Vol.22/【THE BANK(ザ バンク)】バー

由比ヶ浜通りにある、元々銀行だった古い建物をリノベーションしてつくられたバー【THE BANK(ザ バンク)】。一度の閉店を経て、前オーナーのアートディレクター、故・渡邊かをるさんから、現オーナー、インテリアデザイナーの片山正通さんにバトンがわたった今も、鎌倉を代表するバーとして夜を紡いでいる。時がとまったような扉を開ければ、あなたもきっと、特別な時間に包まれるはず。

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バーは、生きている

 「バー」とは、どういう空間を指すのだろうか。

 なんてことを考えたのは、由比ヶ浜通りにある【THE BANK】に行き始めた頃である。東京では特に意識はせずにあちこちのバーと呼ばれる店に出入りしていたのだけれど、バーの少ない鎌倉にこの店があったせいか、そんな疑問を抱いた。夕飯の後、夜の余韻を楽しむためだけに店を変えるという東京では当たり前にしていた行為が、鎌倉では新鮮で貴重なものに思われた。今から十数年前のことだ。

 単に酒が飲めるところをバーと呼ぶのではない。どういう銘柄の酒を置いているとかカクテルが何種類以上飲めるとか一枚板のカウンターだからとか、そういうことではない。外側の条件で限定するものはないのである。幾度となくこの店のカウンターに座って、オーナーもしくはバーテンダーの理想のイメージを味わいにいく場所、それがバーだという私なりの結論にたどり着いた。酒もつまみも灰皿もグラスもインテリアもバーテンダーの所作も、そこにあるすべてはイメージを伝えるためにある。私たち客は空間と時間を使ってそれを味わいにいく。

    再開してから、このバーに立つ、バーテンダー野澤昌平さん

    再開してから、このバーに立つ、バーテンダー野澤昌平さん

 【THE BANK】は昭和二年に鎌倉銀行の由比ヶ浜出張所として建てられた小さなビルである。由比ヶ浜通りといくつかの通りが交わる交差点の一角に位置している。この古いビルがそのまま残っていることは、地元の人間としてほこらしい。

 ここは私が子供の頃は小児科医院だった。その後、古着の店になったりして気がつくとバーになっていた。開業はほんの19年前なのだが、時々、私が生まれる前から【THE BANK】はあって、亡くなった父もここでグラスを傾けていたんじゃないかという気がしてしまう。

    入口入ってすぐのテーブル席。この床は1927年鎌倉銀行が建てられた当時のまま

    入口入ってすぐのテーブル席。この床は1927年鎌倉銀行が建てられた当時のまま

 このバーは「もしここが竣工当時から銀行ではなくバーだったら?」という発想から生まれたそうだが、そんなことを考えたくなるような建物なのだ。

 2000年にこのバーをオープンさせたのは、キリンラガーのラベルなどで知られるアート・ディレクターであり、骨董の目利きとしても知られていた故・渡邊かをるさん。

 銀行だった頃は貨幣が行き来をしていた大理石のカウンターはそのままに、奥にはもう一つの湾曲した木製のカウンターがあってバーテンダーが立つのはその中だ。初めてここを訪れた時、バーのカウンターは直線で成り立っているものという自分のありきたりな思い込みにちょっと落ち込んだ。

 エントランスの床も当時のまま残されていて、見事な人研ぎである。人研ぎはセメントに小さな石を混ぜて固まったら表面を削るという手法で、昭和の前半によく見られたもの。今では出来る左官屋も少なくなっているそうだ。クラシックなコートラック、椅子やテーブル、アール・デコ調のシャンデリアなど、空間を構成するものすべてが過去に息を吹き込むように、ここにあった。

    入口入ってすぐの天井を見上げると、1927年の銀行創業時から変わらない天井のレリーフを見ることができる

    入口入ってすぐの天井を見上げると、1927年の銀行創業時から変わらない天井のレリーフを見ることができる

 中でも私が大好きだったのは、大理石のカウンターの壁側に置いてあった大きなゴードン・ジンの古いボトル。1920年代の販促用のものだと聞いた。ラベルのところどころがほんの少し色褪せた大きなボトルは、このバーの番人のように思えた。

 開業当時はバーテンダーが入るカウンターの奥に厨房があって、本格的なフードメニューが供されていた。なかでも、蒸し暑い夏の夜に頼んだゴーヤチップスの味が忘れられない。薄くスライスしたゴーヤの香ばしさと程よい苦さ、それらを引き立てる黒胡椒。ほんの一、二杯のつもりだったけれど、ゴーヤチップスをお代わりして、けっこうな長居をしてしまった。自分でもゴーヤを買って揚げてみるのだけれど、同じように仕上がったことはない。もしかしたら、店の雰囲気が決め手のスパイスだったのかもしれない。

    大理石のカウンター前では、スタンディングでお酒を楽しむ方も多い

    大理石のカウンター前では、スタンディングでお酒を楽しむ方も多い

 店内には窓の外とは違う時空があって、抑制された空気が漂っていて、店を出れば潮の香りがして、ドレッシーでもカジュアルでもない。東京にもニューヨークにもパリにもこんなバーはないんじゃないかと思う。

 【THE BANK】を手がけたのがワンダーウォールの片山正通さんだと知ったのは通い始めてずいぶん経った頃だ。意外だった。片山さんといったら、未来に向かったモダンな空間を作り出すインテリアデザイナーというイメージが強かったから。「竣工当時から、バーだったら」というアイデアも片山さんによるものだそう。

 ワンダーウォールを立ち上げて初めての仕事が、このバーのインテリアで、かをるさんからはこう発注を受けたという。

「イタリアのバールとアイリッシュ・パブとあの頃の日本の感じな!」

 たった9坪の空間に。

    アイラ島のウイスキー『LAGAVULIN』16年物1500円。バーではウイスキー、ジンの種類を豊富にそろえる

    アイラ島のウイスキー『LAGAVULIN』16年物1500円。バーではウイスキー、ジンの種類を豊富にそろえる

 かをるさんの訃報を聞いたのは、坂ノ下にある日本料理屋にいた時だ。一緒にいたフード・ライターの小石原はるかさんの携帯電話に悲しい知らせが入った。食事の後、ここに献杯に行った。私はアイラ島のウイスキーをトワイスアップ、はるかさんはウォッカソーダだった。2015年3月27日のこと。
 それから二ヶ月後、 主を失った【THE BANK】は閉店してしまった。最後の夜、この光景を目に焼き付けておこうと足を運んだが、あまり酔えなかった。馴染みの店がなくなるさびしさは何度経験しても慣れないものだ。

 それから、地元の人間はもちろん、東京からここに通っていた人々は騒ついた。
―バンクはどうなるんだろう。
―あの建物、まさか取り壊されちゃったりしないよね。
―有志でお金を出しあって再開できないかな。

 私も友人知人でこのバーを経営できそうな人はいないだろうかとない知恵を絞ったりもした。みんながあまりにバーの心配ばかりするので、故人に対して失礼なのではないかという人もいるぐらいだった。

    店内にさりげなく飾られている、前オーナー故・渡邊かをるさんのポートレート

    店内にさりげなく飾られている、前オーナー故・渡邊かをるさんのポートレート

 空間を手掛けた片山さんは、かをるさんが亡くなった後は大きな悲しみに包まれ、しばらくは【THE BANK】のことなど思い出す余裕もなかったそうだ。しばらくたってから、ふとどうなっているのだろうと気になり、後を引き継ぐことを決意した(エラそうで申し訳ないけれど、新しいオーナーとして最も収まりのいい方だ)。故人のお兄様に問い合わせ、物件のオーナーと面会して説得し、使われていなかった店内を修復し、2016年10月に再開させた。この一報を耳にした時、私は安堵のあまりその場で座り込んでしまった。単なる客なのに。やっぱり鎌倉の夜には【THE BANK】がなくてはね。

 店は空っぽになっていたけれど、主だった家具は隣の【そうすけ】という古家具&古道具屋が「いつか志を持った方が現れた時にために」と、保存してくれていたという。 この店のお化粧室はそうすけに食い込む形で設置されている。

    由比ヶ浜通り、六地蔵交差点にたたずむ【THE BANK】。早い時代の流れに、取り残されたように建つ

    由比ヶ浜通り、六地蔵交差点にたたずむ【THE BANK】。早い時代の流れに、取り残されたように建つ

 新しい【THE BANK】は、かつてとは違い、どこか軽やかな風をまとっているような雰囲気である。かをるさんの 【THE BANK】が「ストイック」なら、新生【THE BANK】は「解放」というイメージだ。バーだって生きている。引き継ぐところは引き継ぎ、でも、それには縛られずにいることが再生なのだと思う。ゴードンのボトルが無いのは残念だけれど、その欠けていることも含めてが新しい【THE BANK】である

 再開の案内の葉書の文面にはこんな追伸が添えられていた。

―かをるさんが愛してやまなかった葉巻。その煙でベージュ色に染まった壁はそのままです。

 その壁にはかをるさんの小さなモノクロ写真が飾られている。

【THE BANK】

  • 住所:神奈川県鎌倉市由比ヶ浜3-1-1
    電話:0467-40-5090
    営業:水~金曜 17:00~翌1:00
    土日祝日 15:00~翌1:00
    定休日:月曜日、火曜日
    チャージ:土日祝日のみ一人500円かかります

著者プロフィール

  • 甘糟りり子
    作家。1964年横浜生まれ。3歳から鎌倉在住。都市に生きる男女と彼らを取り巻く文化をリアルに写した小説やコラムに定評がある。近著の『産む、産まない、産めない』(講談社)は5刷に。そのほか『産まなくても、産めなくても』(講談社)など現代の女性が直面する岐路についての本や、鎌倉暮らしや家族のことを綴ったエッセイ『鎌倉の家』(河出書房新社)など好評発売中

毎日読み物が更新されるウェブサイト「よみタイ」でも連載中

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