<連載短編小説>#もう一度レストランで|「徒歩30分圏内の冒険」山崎ナオコーラ
恋人未満の二人をあとおしし、家族の記念日をともに祝い、おいしいお酒に友だちと笑う。レストランでのありふれた光景が、特別なものだったと気づいたこの数年。レストランは食事をするだけの場所ではなく、人と人とが交わり、人生が動く場所だった。これは、どこにでもあるレストランで起こる、そんな物語のひとつ。
雪子は若い頃、よく一人旅をした。なにしろ、孤独好きの雪子だったから。
国内旅行も、海外旅行も、大した予定を立てずに、バッグパックを背負ってふらりと出かけ、知らない街をてくてく歩き、行き当たりばったりで観光をし、気になるドアを見つけたら勇気を持って開き、そこがレストランだったら片言の英語で注文をし、予想外のボリュームで出てきた料理を頑張ってたいらげた。
雪子は一人が好き。なんでも自分でやりたい。孤独と勇気こそが人生を作るのだ。
「楽しかったなあ、もうあんなことはないのかなあ」と雪子はコンビニエンスストアからの帰り道にひとりごちる。
たとえコロナ禍でなくても、幼い子たちを抱えていれば、一人旅なんて夢のまた夢だ。旅どころか、美術や演劇だってもう何年も観ていない。レストランもバーも、一人で行っていない。
専業で家事育児をこなす雪子の体は、二歳と三歳、年子の子どもたちと常に共にあり、家とその周辺で過ごす日々に浸かっている。
意外だ。結婚せずに働くと、周りも雪子も思っていた。友人たちも、家族や親族も、雪子自身も驚いている。ともあれ、雪子の人生はこんなふうに進んでいる。
今日は夫が仕事から早く帰ってきたので、30分だけもらい、コンビニエンスストアに生理用品を買いに出た。今の雪子には、その程度の「一人時間」しかない。
子どもたちが大きくなったとき、たくさんの「一人時間」が雪子の人生にもう一度プレゼントされるのかもしれない。その孤独を浴びたとき、楽しめるだろうか。その日の雪子に、若い日々のようなバイタリティが残っているだろうか。
ちょっと不安だ。今だって、活力の減少を実感しているのだ。
雪子は、大きなドアの前で立ち止まった。
このドアだって、コンビニエンスストアの行き帰りにいつも見かけて、ずっと気になっているのに、一度も開けていない。気になるドアを一人で開けるところに人生の醍醐味があったはずなのに、最近の自分には開ける活力がないみたいだ。
雪子は、くるみの木でできていると思われる、分厚いドアを見つめた。看板から、ここが「ウイスキー・バー」だとわかっている。川沿いの木陰に佇む、レンガ造りの古いビルの一階にある、小さなバー。
見つめているうち、それが突然降ってきた。孤独と勇気だ。
雪子は、両手を空に向けた。子どもたちが離乳し、もう酒が許される。気がつけば、少し心に余裕がある。活力がないと思っていたけれども、振り絞れば、あるかも。今、開けてみよう。
あと二十年くらいしないと降ってこないと思っていたものが、降ってきた。
ああ、孤独と勇気は、育児の何もかもが終わってから突然にどかんと降ってくるわけではなくて、子どもの成長と共に少しずつ、たまに降ってくるものだったのか。
雪子は、重厚なドアを押した。力が要る。「力仕事だ。夫に開けてもらわないと」という発想が浮かび、そのあとニヤリとして首を振り、ぐぐぐぐと自分だけの力で開ける。「開けられたぞー」という、若い頃の一人旅で、計画を実行できたときの「私でも、行けた」という喜びに似た感情が湧いてくる。
意外にも、バーテンダーは若い女性だった。静かに微笑んでくれる。心強く思う。「育児中に一人で酒を飲むことを、世間から怒られるんじゃないか」と怖かったが、この人はきっと怒らない。
「えっと、何か、煙っぽいウイスキーを。あと、それから、えっと、自家製ベーコンのソテーをお願いします」
雪子は、カウンターに座り、メニューが書いてある黒板を見ながら、たどたどしく注文した。夫からもらった30分はちょっと超えていいや、と思ってはいるが、長居はできないから、さっと食べられるものがいい。ベーコンなら、すぐに食べ終わりそう。ウイスキーの銘柄は一つも知らない。でも、数年前にウイスキーを飲んだときに「煙っぽい味だなあ」と思った。あの味をもう一度楽しみたい。こんな言い方で通じるのかはわからないけれども、「煙っぽい」と言ってみてしまえ。
「かしこまりました。飲み方はいかがしますか?」
バーテンダーは静かに頷く。
「飲み方? はあ、えっと、ロック?」
飲み方という言葉がすぐには理解できなくて雪子は戸惑った。でも、「ロック」というセリフをドラマや映画で聞いたことがある。それを疑問形で口にした。
バーテンダーは、キラキラ光る氷を取り出し、グラスに落としてくるりとかきまぜる。
出来上がったウイスキーが、そっと雪子の前に出される。グラスのカッティングの乱れた光、氷の形の角張った光、琥珀色のとろんとしたまろやかな光、とても美しい。味は、孤独の風味。
自家製ベーコンも煙っぽい味で、ウイスキーによく合う。
「おいしいかったです。ご馳走様でした」
あ、ご馳走様って他人に言うの、久しぶり、と雪子は嬉しくなった。
家を出てから、50分。
「ごめん、ごめん。遅くなった」
雪子がおそるおそる家に帰ると、
「え? 大丈夫だよー。買い物、できた?」
夫は時間を超えたことに気がついてもいなかったようで、楽しそうに子どもたちと遊んでいた。
「うん、ありがとう」
ニヤニヤながら雪子は靴を脱ぎ、こっそりと「冒険したぞー」とつぶやいた。海外旅行に出るのはもう少し先になるかもしれない。でも、徒歩30分圏内の冒険なら、来週か来月にも、またできるかもしれない。
著者プロフィール
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山崎ナオコーラ
作家。目標は、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。 性別非公表 。白岩玄さんとの交換育児エッセイ『ミルクとコロナ』発売中。
吉祥寺に住んでいた頃によく行きました。濃いピンク色の壁の店内も、「毛皮のコートを着たニシン」「橇に乗ったスルグニ」などの料理名も、かわいいです。
【Cafe RUSSIA 吉祥寺】
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電話:0422-23-3200
住所:東京都武蔵野市吉祥寺本町1-4-10 ナインビルB1
アクセス:JR 吉祥寺駅店舗詳細はこちら >
文/山崎ナオコーラ イラスト/yasuna 構成/宿坊 アカリ(ヒトサラ編集部) 企画/郡司しう
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