<連載短編小説>#もう一度レストランで|「知らない食べ物」加藤千恵
恋人未満の二人をあとおしし、家族の記念日をともに祝い、おいしいお酒に友だちと笑う。レストランでのありふれた光景が、特別なものだったと気づいたこの数年。レストランは食事をするだけの場所ではなく、人と人とが交わり、人生が動く場所だった。これは、どこにでもあるレストランで起こる、そんな物語のひとつ。
ピザとかハンバーガーがよかったのに、と思いながら、運ばれてきた生姜焼き定食の生姜焼きを食べてみて、あたしはちょっとビックリした。
おいしい。すごくおいしい。
うちでお母さんが作る生姜焼きもおいしいと思ってたけど、それとは違う料理みたいだ。お肉を口に入れた瞬間に、甘さとかしょっぱさとか、いろんなものがぶつかってくる感じ。ごはんにすごく合う。
「おいしい」
「だろ?」
なぜか作ってもいないお父さんが得意げに言う。あたしは少し悔しくなってしまい、お母さんのもおいしいけど、と付け足した。
お父さんは魚の煮つけを食べるより先に、瓶のビールを、小さなコップにうつして、飲んだ。
「あー、うまい」
お酒を飲むお父さんは好きじゃない。普段とそんなに変わるわけじゃないんだけど、お父さんは酔っぱらうと、話したことを忘れてしまうみたいだ。楽しみにしていた約束が、お父さんの中では存在しないものになっていて、ガッカリしたことが何度もある。
でも多分、あたし以上に、お酒を飲むお父さんを嫌っている人がいる。お母さんだ。いい気なもんよね、毎晩毎晩お酒は欠かさずに。そんないやみを、しょっちゅう言う。お父さんは聞こえないふりをする。たいていは、お母さんがまた何かを言って、お父さんが聞こえないふりをしておしまいになるけど、お父さんが何かを言い返したり、お母さんの言葉が止まらなくなったりすることもある。
「久しぶりだよなあ、こんなふうに美月とごはん食べるの」
「うん」
あたしは答える。本当に久しぶりだ。初めてではないと思うけど、前がいつだったのか思い出せない。
今日、お母さんと海斗は、アニメ映画を観に行っている。おねえちゃんもくればいいじゃん、と海斗は言ってたけど、海斗が好きなアニメは好きじゃない。二人は映画が終わってから、あたしたちと同じように、お店でお昼ごはんを食べているはずだ。多分ファミレスかうどん屋さんかハンバーガー屋さん。お母さんと外食するときは、三つのうちのどこかが多い。
だから今日、どっか食べに行くか、と言ったお父さんが、車に乗らずに歩き出したときはびっくりした。いつも行くお店はどこも、車でしか行けない。すぐ近くだから、とお父さんは言って、なんのお店か聞いても、秘密、としか答えてくれなかった。そしてこの、「呑み処 あき」にたどり着いた。来るのも見るのも、初めてのお店だった。十分くらいしか歩いてないと思うけど、細い道をたくさん曲がったりしたし、ここから一人では帰れない。
「はい、これ、昨日の余りだからオマケ。生姜焼き、どう?」
お店の女の人(お母さんよりはきっと年上で、おばあちゃんよりはきっと年下)が、先にお父さんに、そのあとにあたしに向かって言う。おいしいです、とあたしは答えた。あらー、よかったー、と女の人が言う。
「おお、ありがとう。これはビール追加になっちゃうかもなあ」
「昼間っから、ほんとに、ねえ。ゆっくりしていってね」
女の人はそう言って、あたしたちのテーブルを離れて、またカウンターのほうに戻っていく。お客さんはあたしたち以外は今は二人だけだし、お店も広くはないけど、女の人が全部一人で料理を作ったり、運んだりしているのがすごいと思う。
「ラッキーだなあ」
嬉しそうにお父さんは言い、持ってきてもらった、青い線の入った、小さなお皿の中のものを食べて、うん、うまい、と言う。
ピンクみたいな、オレンジみたいな色。ハム? でもなんか、違う気もする。
「美月も食べるか? あん肝」
あたしがそれを見ているのに気づいてか、お父さんが言う。
「アンキモ……?」
「知らないのか、あん肝。あんこうの肝だよ。あん肝」
「食べられるの?」
アンコウは図鑑やテレビで見たことがある。あの気持ち悪い深海魚と、目の前のものが、結びつかない。キモっていうのはどこなんだろう。
「そりゃあ食べられるよ。うまいんだから。ほら」
おかしそうに笑って、お父さんは、お皿をあたしのほうに近づけた。あたしは少しだけ、それを箸でとってみる。ほろりと崩れる。口に入れてみた。
変。
最初に、そう思った。なんか変。
でも、すぐに、おいしい、と思った。温泉卵の黄身みたいな、チーズみたいな、ねっとりとした感じ。
「おいしいね」
初めて食べる「アンキモ」だった。だろ、とお父さんは言う。あたしがさっき、生姜焼きをおいしいと言ったときみたいな感じで。
そのまま少し、黙って生姜焼き定食を食べた。ついていたポテトサラダもおいしかった。
お父さんがどこかを見ているのに気づいて、見てみると、お店の高いところにテレビがあって、タワーが映っていた。スカイツリーが綺麗に見えるんですよー、とテレビの中で誰かが言う。スカイツリー。東京にあるやつだ。
「お父さんの新しい家、スカイツリー、近いの?」
質問した瞬間に、よくなかった気がした。新しい家のことは、言っちゃダメな気がする。
でもお父さんは、全然よくない感じではなく、普通に言った。
「いや、近くないな。ナカノだから」
ナカノ、がどこにあるのか、あたしにはわからない。あたしも一歳のときに東京に行ったことがあるらしい。でももう、十年近く前だし、赤ちゃんのときだからおぼえてない。ただ、「カミナリモン」の前で、お母さんに抱っこされたあたしが写っている写真は、何回も見たからおぼえている。あれはきっと、お父さんが撮ったのだ。海斗もまだ生まれていなかった頃の、三人の旅行。
「お父さん」
「どした?」
柔らかい声で、お父さんは答える。
リコンなんてしないで。
東京なんて行かないで。
あたしも一ヶ月のうち、一週間くらいは、東京でお父さんと暮らしたい。
浮かぶことはいっぱいあったけど、どれを言っても、お父さんを困らせてしまいそうな気がした。だから言えない。言うことなんてできない。
「アンキモって、おいしいんだね」
あたしは言った。浮かんだことたちとはまるで違う。でも、おいしいと思ったのは本当だから、嘘じゃない。
「美月は酒好きになるかもなあ。いつか一緒に飲もうな。ほら、まだあるの食べな」
お父さんはそう言って笑った。約束だよ、と言いたくなったけど、お酒を飲んだお父さんは、すぐに話したことを忘れてしまう。あたしはちゃんとおぼえていようと思った。おぼえていて、きちんとかなえてもらわなくちゃいけないと、そう思った。
アンキモを箸でとって、口に入れる。やっぱりおいしかった。初めてアンキモを食べたことは、お母さんにも海斗にも、内緒にしようと心に決める。
著者プロフィール
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加藤千恵
歌人・小説家。1983年北海道旭川市生。立教大学文学部日本文学科出身。短歌集『ハッピーアイスクリーム』でデビュー。短歌以外にも、小説、エッセイ、作詞提供等幅広く執筆する他、ラジオ等のメディアにも出演。近刊に、NICU(新生児特定集中治療室)を舞台とした『この場所であなたの名前を呼んだ』など。
好きなものを好きな量だけ盛りつけてもらえる前菜やデザート、食材や調理方法を指定できるパスタやメインなど、ここは現実ではなく夢の世界なのではないかと、初めて行ったときにすごく驚いたお店。実際、どの料理も、夢のようにおいしい。
文/加藤 千恵 イラスト/yasuna 構成/宿坊 アカリ(ヒトサラ編集部) 企画/郡司しう
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