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更新日:2017.12.18健康美食 連載

体調を崩しやすいこの時期。滋養と薬効を鑑みた、車浮代の「江戸の変わり飯」レシピ三品

時代小説家で江戸料理・文化研究家の車浮代さんに、現代人が忘れてしまった江戸の素朴で豊かな食事情を教えていただく第六弾。体調を崩しやすいこの時期。薬効を鑑みた、江戸の変わり飯レシピ三品をご紹介します。ごゆるりとお愉しみくださいませ。

体調を崩しやすいこの時期。滋養と薬効を鑑みた、車浮代の「江戸の変わり飯」レシピ三品

江戸の変わり飯レシピ三品

風邪をひきやすい季節にお勧めの「変わり飯」三品をご紹介

 師走に入り、年末進行と飲み会で、体調を崩されている方も少なくないのではないでしょうか。
 胃腸の変調は元より、抵抗力が弱まり、風邪をひきやすい季節でもあります。
 そんな折には、消化の負担が少なく、身体を暖める山芋や粥、古来より咳止め効果があると言われている銀杏を使った江戸ご飯三品をお勧め致します。

『零余子飯』(三人前)

山芋の芽と根を同時に使った親子飯です。

■材料(三人前)
・零余子…50g
・水…600ml
・塩…小さじ1
・米…2合
・山芋…100g
・めんつゆor濃いめの白味噌汁…大さじ2
・とんぶり…適量
・山葵おろし…少々

■作り方
1)鍋に水と塩を入れ、洗った零余子を10分程度茹でて冷ましておく。
2)炊飯器に洗米と1の零余子、400mlのゆで汁を入れ、30分程度置いてから炊く。
3)2をざっくりと混ぜて、茶椀に盛り、摺り下ろしてつゆを混ぜた山芋、とんぶり、山葵おろしを乗せていただく。

『平家物語』の中に、零余子を詠んだ短歌があります。

 白河上皇と平忠盛の間で交わされたこの短歌、実は平清盛の出生の秘密について書かれた、重要な一首なのです。

 永久5(1117)年、白河上皇は、妊娠中の愛妾を家来の忠盛に下し、生まれた子が女だったら引き取るが、男だったら忠盛の長子として育て、武士にせよ、と命じます。

 翌年、男の子が生まれたものの、それを白河院に伝える術に恵まれませんでした。

 重要機密事項ですから、伝言を頼むわけにもいかなかったのです。

 ……と、チャンス到来。ある時忠盛は、熊野詣に行く白河院の護衛を仰せつかりました。

 山中で休憩の折、忠盛は薮に分け入り、零余子をたくさん採ってきて、「いもが子は はふほどにこそ なりにけれ」と上の句を添えて院に献上すると、院は頷き「ただもりとりて やしなひにせよ」 と下の句を続けられました。

「いもが子」は「芋の子(零余子)」と、「妹が子(妻の子)」の二つの意味を持ち、「ただもりとりて」は「たくさん盛り取って」と「忠盛が引き取って」、「やしなひ」は「養い(食糧)」と「養子」をかけています。

 つまり、「あなたの子どもは這い這いをするほどに育ちましたよ」と報告した忠盛に対して、「お前が引き取って養子にせよ」と命じたわけです。

 こうして、院からの下知を賜った忠盛は、清盛を平家の惣領息子として育て、平家に栄耀栄華をもたらしました。

 山芋は消化吸収が良く、精がつく食材であることは、古くから知られていました。 

 『今昔物語』には「芋粥」に憧れる男の話が掲載されており、井原西鶴の『好色一代男』では、ラストに主人公の世之介が、大量の山芋を船に積んで女護島を目指しました。

 また、駿河の鞠子宿(丸子宿とも)の「とろろ汁」は、東海道のご当地グルメとして有名でした。

 東には安部川が、西には長くてきつい宇津ノ谷峠があったため、上りも下りも、鞠子宿に到着した旅人達は疲労困憊。

 そんな人々にパワーを与えてくれたのが、白味噌と出汁と卵を混ぜたとろろを麦飯にかけていただく、名物の「とろろ汁」です。

 歌川広重の『東海道五拾三次』に描かれた、慶長元(1596)年創業の「丁子屋」は、移転したものの現在も健在で、昔ながらの「とろろ汁」を味わうことができます。

『銀杏飯』(二杯分)

鎮咳去痰薬として知られた銀杏を出汁がけで。

■材料(二杯分)
・銀杏…20個程度
・芹…1株
・温かいご飯…2杯分
・鰹出汁…300ml
・醤油…小さじ1.5
・塩…少々

■作り方
1)銀杏は殻を割って塩茹でにし、温かいうちに指で軽く潰しておく。芹は2cm程度に切る。
2)温かいご飯に銀杏と芹を混ぜ、茶椀に盛る。
3)醤油と塩で味を整えた、熱い鰹出汁をかけていただく。

 平安時代の留学僧が大陸から持ち帰ったとされる銀杏は、1億5000万年前から存在する世界最古の植物の一種で、「生きた化石」とも呼ばれています。

 太古から生き残って来ただけあって、非常に強い木で、コルク状の厚い皮を持ち、水分を多く含むので、火が近付くと水蒸気を放つと言われています。

 2、3年に一度、大火事に見舞われた江戸では、延焼を防ぐため、神社仏閣や火除け地に、多くの銀杏の木が植えられました。
 
 葉は防虫剤としても用いられ、銀杏は外の実を腐らせて種子を取り出し、中の仁を食します。

 ただし銀杏は、アンチビタミンB6物質を含むため、生で食べたり、食べすぎると中毒を起こすことがありますので、加熱調理した上で、1日10個程度までにとどめておくことをお勧めします。

『蕎麦汁粥』(二人前)

白粥に蕎麦汁をかけ、薬味を乗せたシンプルなお粥です。

■材料(二人前)
・米…1/2カップ
・水…500ml
・塩…少々
<蕎麦汁>
・醤油…50ml
・味醂…50ml
・水…200ml
・鰹節…1パック

・大根おろし…大さじ1
・刻み葱…少々
・一味唐辛子…少々

■作り方
1)鍋に醤油、味醂、水を入れて煮立て、沸騰したところに鰹節を入れて火を止めて冷まし、漉して蕎麦汁を作る。
2)別の鍋に水と洗った米を入れ、混ぜながら強火で炊く。ふきあがったら塩を入れて中火にし、灰汁を取りながら30分程度炊く。
3)2に好みの量の1をかけ、大根おろし、刻み葱、一味唐辛子をのせていただく。

 現在の蕎麦つゆは、醤油と味醂と砂糖を煮て、しばらく寝かせた「かえし」を、出汁で割ったものが使われます。

 出汁の割合を変えることにより、少なければつけ蕎麦に、多ければかけそばのつゆになります。

 出汁を何で取るかは店次第で、こんぶ、鰹節、干ししいたけ、いりこなどを組み合わせて、独自の出汁を作っています。

 ところが江戸時代は、上方(京・大坂)では昆布出汁、江戸の町では鰹出汁を取るのが主流でした。

 そもそもこれは水の違いにあり、上方の水が超軟水なのに比べ、江戸湾を埋め立てて造った江戸の町はややミネラル分を含んだ軟水であったため、昆布出汁がうまく取れなかったのです。

 そのため、鰹出汁がベースとなり、上方から下って来る、高価であっさりとした下り醤油よりも、近隣の野田や銚子で安価に造られる濃口醤油の方が、鰹出汁に合うということで、以降長年に渡って、関西と関東のつゆの違いが生まれました。

 ほんの十数年間前までは、東京のかけ蕎麦の黒いつゆの色に、ぎょっとする関西人がほとんどでした。

 また室町時代から醤油が発明される前までは、麺類は「たれ味噌」と呼ばれる、味噌を煮詰めて濾した汁に、鰹節と薬味を加えたつゆや、味噌と水と鰹節を煮詰めて作る「煮貫(にぬき)」と呼ばれるつゆで食べられていました。

 江戸中期になると、味噌ベースのつゆと醤油ベースのつゆが混在し、やがて醤油ベースのつゆが主流になってゆきますが、つゆに味醂、ましてや砂糖が使われるようになったのは、江戸後期以降のことです。

この記事を作った人

取材・文/車浮代

時代小説家/江戸料理・文化研究家。著書に『江戸の食卓に学ぶ』『江戸おかず12ヵ月のレシピ』『今すぐつくれる江戸小鉢レシピ』、ベストセラーとなった『春画入門』『蔦重の教え』など多数。TV・ラジオ、講演等で活躍中。国際浮世絵学会会員。http://kurumaukiyo.com

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