ヒトサラマガジンとは RSS

更新日:2021.06.18食トレンド グルメラボ

1つ星から2つ星へ。そのときシェフはなにを考えたか?|シェフズテーブル 【HOMMAGE】荒井昇 氏(後編)

外食シーンを賑わす注目のシェフや食にまつわるスペシャリストなどをゲストにお迎えする、ラジオ形式のヒトサラオリジナルトーク番組「シェフズテーブル」。最新回では、ミシュランの2つ星に輝く【HOMMAGE】の荒井昇シェフをゲストに招き、前後編でお届けしています。そして後編では、修行時代から【HOMMAGE】オープンから2つ星を獲得するまでの荒井シェフのヒストリーを伺いました。(SMART USEN、YouTubeで配信中)

1つ星から2つ星へ。そのときシェフはなにを考えたか?|シェフズテーブル 【HOMMAGE】荒井昇 氏(後編)

(パーソナリティ:ヒトサラ編集長・小西克博 アシスタント:りーまる)

「シェフズテーブル」今回の見どころ

憧れのシェフが来日
直談判して、飛び込みでフランスへ!

前編に引き続き、ゲストは【HOMMAGE】の荒井昇シェフ。

後編となる今回は、浅草の3代目、きっすいの江戸っ子だった荒井シェフがなぜ料理人をめざしたのか、フランス修業時代、【HOMMAGE】開店、そしてミシュランの1つ星から2つ星へ、といった今にいたるまでに起こったヒストリーをお聴きしていきました。

なかでも面白いのが、憧れのフランス人シェフが来日したときのお話。

フランスの【Le Clos des Cimes(ル・クロ・デ・シーム)】のレジス・マルコンシェフに憧れていた、若き日の荒井シェフ。当時、フランス語もままならない状態でしたが、シェフが来日する際、彼の元で働きたい一心で、辞書で調べてフランス語で一つのメモを書き、それを握り締めて、直接会いに行ったそうです。

「あなたのお店で働かせてください」と書かれたそのメモを、無言で手渡したそうです。

    当時、24歳。この年齢でフランスに行くことはもともと決めていたと言います

    当時、24歳。この年齢でフランスに行くことはもともと決めていたと言います

自分の思いを伝えることはできたが、フランス語がわからないために相手がどういう返事をしてくれているのかはわからず……。あわててフランス語が話せる知人を連れていき、シェフからの返事を訳してもらったといいます。

けっか、レジス・マルコンシェフからは、「フランスに来る前に、もう一度手紙をください」と、前向きな返事がいただけたそうです。

荒井シェフの、江戸っ子らしい思い切りのよさを感じるエピソードです。

オープンして20年余り。
【HOMMAGE】に起きた変化をたどる

さて、時は移り、フランスから帰国した荒井シェフ。

帰国してすぐ1年間は、築地市場で働いていましたが、その後満を持して【HOMMAGE】をオープンします。

オープン当初の営業は、ビストロスタイル。当時は、「いかに安くておいしい料理を出すか」ということを徹底的に考えていたそうです。キャビアやフォアグラなどの高級食材は使わず、安価な食材をどう工夫しておいしくするか。

それをつらぬくために、少しでも安いものを探してはシェフみずから原付を走らせて、食材を仕入れに行っていたと笑いながら話します。

    オープン当初のビストロ時代から、シェフとお店の変化を探っていきます

    オープン当初のビストロ時代から、シェフとお店の変化を探っていきます

そんな【HOMMAGE】が、現在のスタイルに変わっていくきっかけとなったのが開店9年目の移転。

同じ浅草で、しかも至近な距離への移転でしたがこれを機に、ビストロからレストランへとスタイルを変えました。

ここから、シェフのアイデンティティをどう出していくか、そしてミシュランの星を獲得するまで、1つ星から2つ星になるときシェフが考えたこと……と、話は展開していくのですが、そのエピソードはぜひ「シェフズテーブル」本編でお聴きいただければと思います。

……ということで、YouTubeのご視聴はこちらから↓

ゲストプロフィール

荒井 昇 氏
  • 1974年、東京都生まれ。24歳で渡仏すると、パリ【オーベルジュ・デ・シーム】、南仏【オーベルジュ・ラ・フニエール】などの星付きレストランへ。帰国後は、開店資金を貯めるべく築地の仲買として1年間働き、26歳の若さで【HOMMAGE】をオープン。生まれ育った浅草で、東京ならではの自分らしいフレンチをつくり続けている。

この記事を作った人

ヒトサラ編集部

この記事に関連するエリア・タグ

編集部ピックアップ

週間ランキング(11/26~12/2)

エリアから探す