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新宿ゴールデン街日記 Vol.8

新宿ゴールデン街の日常を綴る【The OPEN BOOK】田中開の連載コラム。今回は、ゴールデン街で生まれ育った【ロベリヤ】の玲子ママに、会いに行きました。

新宿ゴールデン街日記 Vol.8

Vol.8 対談:ゴールデン街今昔[前編]

 今回は【The OPEN BOOK】から、外へ出ます。向かうのは、歩いて20秒の【ロベリヤ】へ。
 【ロベリヤ】のママ・玲子さんは、なんと、この街で生まれ育ち、いまもお店のママをしてらっしゃる生粋のゴールデン街ママ。そんなママに僕の知らない昔のゴールデン街の話を聞きたいと思い、お店をちょっと抜け出して【ロベリヤ】で飲み交わしてきました。

ゴールデン街のママだけが知る、生活感溢れる街の息遣い

原島玲子ママ(以下、ママ)「わたしの母がゴールデン街のお店で働きはじめたのが、青線(注:特殊飲食店区域として、売春行為が黙認されていたエリアの俗称)が廃止になった頃。叔母さんがやっていた【せっちゃん】っていうスナックで、うちの母親姉妹は働いてお金を貯め、五番街に自分たちのお店をだしたの」


田中開(以下、カイ)「ママのお母さまは、僕が初めてゴールデン街でバイトをした【しの】のママと同世代ですかね。今70代のママたちがお店をやり始めたときが、いわゆる第一世代といわれる時代ですよね」


ママ「昔は、ゴールデン街は飲食店街でもあり住宅街でもあった。下がお店で上が住居で、今とは全然違う街並みだったんだよ。わたしが子供の頃は既に廃止になっていたけど、都電も通っていて、残っていた線路でよく遊んだのを覚えているな。カイ君のおじいちゃん(注:直木賞作家の田中小実昌)が、毎日のようにゴールデン街に通いつめていて、私も随分可愛がってもらったの。夕方に家の前とかで遊んでいると、おじいちゃんがいつもパンとかお菓子をいっぱい持ってきてくれたのを覚えている。その孫と一緒に飲むっていうのは、なんか不思議な感じ」


カイ「毎日来て、毎日帰らないで飲んでいたんですよね? いつ帰っていたか不思議です。おばあちゃんも寛容ですよね。家におばあちゃんが整理した資料が全部きれいにまとめられていて、【まえだ】(注:田中小実昌はじめ多くの文人が通っていた店)のマッチとかありました。あと、原稿送るときは、速達分をはがして普通で出すっていう倹約っぷり(笑)」


ママ「なんかかっこいいけどね。だってさ、マッチってわからないでしょ? 昔は大体お店ごとに屋号が入ったマッチが置いてあったんだよ」


カイ「【まえだ】のマッチが、【しの】にいっぱいあるんですよ。【まえだ】はもう店がないので、最後にもらった貴重なマッチにも関わらず、早番(注:PM12時まで)のキジマさんが普通にそれをタバコに使うんですよ。勿体無いっていっても、うるせーって感じで聞いてくれなくて」

ゴーストタウンと化した90年代

ママ「92年のバブルの頃からお店がどんどん閉まっていって、本当にもうゴーストタウンみたいだった。私は高校生の頃にゴールデン街を出ちゃったんだけど、親とか親戚はみんな住んでいたから、毎日来ていたの。その時代は携帯じゃなくて、自動電話みたいなものを持った地上げ屋がうろうろしていて、ほとんどのお店に不動産の紙が貼られて、もうぽつぽつとしかお店が開いていなかった。あの時は一回、ゴールデン街はなくなるのかなって思ったよね」


カイ「結局誰が地上げをしていたんですかね。僕が聞いた話だと、T電だっていう人もいました」


ママ「そういう話もあるよね。私はS武だと思う。たぶん百貨店が欲しかったんだよ。あと、Sナードがもっとこっちにくるとか、色々な噂が出回っていた。だからその当時は、青写真もよく見たよ。ここを六本木ヒルズじゃないけど新宿ヒルズみたいにしたやつとか。ちょっと高いビルにして、ゴールデン街を何とか横丁みたいな感じにして、昭和のにおいは残します、みたいに言っていたけどすごく反対した。そんなのただの作り物だよって」

対談(前編)を振り返って

 昔の写真をみると、子供が外で遊び、路面には洗濯機が並ぶ。昔は、八百屋や商店もあったという。今よりも、その様子は”街”だったようだ。
 ママの話に、僕は、少し興奮していた。小説や昔話、僕の中で、見聞きでしか無かった物語が、どんどん、リアリティを帯びてくる。あのおじいちゃんの小説の舞台がここのあったという連続性は、さながら、家系図をみられたようで誇らしい。

 話は弾んで、対談:ゴールデン街今昔は次回も続きます。

この記事を作った人

田中開

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