銀座【ESqUISSE】にて開催されたチャリティ イベント「NOTO NO KOÉ」から知る、能登の現在と未来
2024年5月17日、「ESqUISSE コラボレーションチャリティ イベント NOTO NO KOÉ」が開催されました。【ESqUISSE】を舞台に、シェフであるリオネル・ベカ氏とかねてよりご縁のある能登の塗師・赤木明登氏、【ラトリエ・ドゥ・ノト】の池端隼也氏、【ヴィラ・デラ・パーチェ】の平田明珠氏、【茶寮 杣径】の北崎裕氏が結集。トークセッションを皮切りに、4日間にわたってコラボレーションによるランチコースとディナーコースでゲストを魅了しました。
貴重なトークセッションと象徴的なお料理の一部をご紹介します。能登半島地震から4カ月が経過した今だから語れる想いを知っていただければ幸いです。
今回のイベント「NOTO NO KOÉ」をつくり上げたメンバー
書:リオネル・ベカ氏
ベカ氏と能登の繋がりは、2019年の1月に能登の輪島市で赤城明登氏の漆器を使った料理のイベントで生まれたご縁が始まりです。以来、ベカ氏は、折にふれ能登を訪れ、インスピレーションを受けてきました。ベカ氏にとって掛け替えのない地が、2024年1月1日、大きな地震に見舞われました。3月上旬に能登を訪れ、様々なお話をうかがうなかで、能登の皆さんの声を直接届かなくてはいけないと思い、自然な流れでイベントを開催する運びに。
【ESqUISSE】エグゼクティブ シェフのリオネル・ベカ氏
トークイベントの最初に、ベカ氏から次のような挨拶がありました。「料理人である私にとって、能登ほど豊かで理想的な土地はありません。すべてが揃っており、たくさんの刺激をいただいています。自然も土地もそこに住む人も、そして能登の文化も。すべてが美しく、良いことのためにあるような場所です。能登のような場所は私にとっては日本の未来であると思っています。今回のイベントでは、私の声ではなく、能登の声をお届けしたいと思っています」。
左から、赤木明登氏、北崎裕氏、リオネル・ベカ氏、平田明珠氏、池端隼也氏、クリス智子氏
トークセッションは、塗師・赤木明登氏による「輪島塗が導く能登の未来 『小さな木地屋さん再生プロジェクト』」と【ラトリエ・ドゥ・ノト】の池端隼也氏と【ヴィラ・デラ・パーチェ】の平田明珠氏による「『炊き出し』体験で知った料理人のミッション、あたらしい能登の食文化」という2部構成で行われました。ファシリテーターを務めたのは、東京のFMラジオ局 J-WAVEでパーソナリティを務めるなどで幅広く活躍するクリス智子氏です。今回のイベントの趣旨に賛同し、ボランティアでこの役を受けました。
トークイベントの内容をお伝えするにあたり、今回のイベントに携わった能登の職人・料理人の方々をご紹介します。
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赤木明登氏。塗師。1962年岡山県生まれ。中央大学文学部哲学科卒業後、編集者を経て1988に石川県輪島市に移住。輪島塗の下地職人・岡本進氏のもとで修業後、1994年に独立。現代の暮らしに基づく生活漆器「ぬりもの」の世界を切り拓く。「NOTO NO KOÉ」ではトーク セッションを担当、フランス料理と輪島塗のコラボレーションとして作品の器を使用
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池端隼也氏。1979年、石川県輪島市生まれ。辻調理師専門学校を卒業後、大阪【カランドリエ】を経て2006年に渡仏、パリのロブションなど星つきレストランで4年半、腕を磨く。フランス料理に携わる中で、故郷である能登の素晴らしさを世界に発信したいと考えるようになる。帰国後、2014年に地元輪島で【ラトリエ・ドゥ・ノト】を開業。「NOTO NO KOÉ」ではオープニング トーク セッション、全コース コラボレーションを担当
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平田明珠氏。1986年、東京都生まれ。大学卒業後に料理の道へ進む。都内のイタリア料理店勤務の後、食材を探しに訪れた能登半島に惹かれ2016年に七尾市に移住、レストラン【ヴィラ・デラ・パーチェ】をオープン。2020年、七尾市中島町の塩津海水浴場跡地へ移転、宿泊施設を併設したオーベルジュとしてリニューアルオープン。「NOTO NO KOÉ」ではオープニング トーク セッション、全コース コラボレーションを担当
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©︎Mitsue Nagase
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北崎 裕氏。1972年、石川県生まれ。国際基督教大学卒業後、京都下鴨【京懐石 吉泉】で修業。その後金沢に移り、割烹店やホテルの料理長を経て、2023年、日本料理オーベルジュ【茶寮 杣径】開業。「NOTO NO KOÉ」では全コースコラボレーションを担当
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リオネル・ベカ氏。1976年フランス、コルシカ島生まれ。ミッシェル・トロワグロのブラッスリー【ル・サントラル】などで研鑽を積み、2002年より3ツ星レストラン【メゾン・トロワグロ】でスーシェフを務める。2006年、東京に開業する【キュイジーヌ[s] ミッシェル・トロワグロ】シェフに任命され来日。2012年、銀座に誕生した【ESqUISSE】のエグゼクティブ シェフに就任
第1部
輪島塗が導く能登の未来 「小さな木地屋さん再生プロジェクト」・「nurimono house」プロジェクトを通して (赤木明登氏)
自身を「漆に選ばれて輪島に来た」と語る赤木氏(左)とクリス氏(右)
クリス智子氏(以下、クリス氏):赤木さんは輪島に住まわれて35年とのことですが、1月1日の地震の時は、どのような状況だったかおうかがいしてよろしいですか?
赤木明登氏(以下、赤木氏):悪運だけは強いといわれるんですけど、うちの自宅と工房はほぼ何の被害もなく、中はめちゃめちゃですけど建物自体はしっかり残っています。ただうちに通ってくる職人さんが6人いるのですが、うち5人が全壊という状況。ですが、お正月休みだったのは幸いで、みんな実家に帰省していて怪我はありませんでした。私自身も群馬県の法師温泉にいたので、その日は一泊し、翌朝出発しましたが、能登に入れない状況で辿り着いたのは3日の夜でした。
クリス氏:なんとか辿り着いたというかんじですね。その後、電気や水道など復旧はいかがでしたか?
赤木氏:いろんなインフラが途切れていましたが、電気が割と早くて1カ月くらい、水道は2カ月くらい。最後まで来なかったのが、通信回線のケーブルでそれがやっと4日ほど前ですかね。うちは固定電話も繋がらないし、携帯は元々県外で繋がらないし、インターネットも全然接続できなくてメールも全く見えない感じだったので、連絡が取れなくてたくさんの人からすごく心配されたんですけど、僕はそのおかげで静かな暮らしを過ごせました。
クリス氏:その静けさのなかで、赤木さんはまず何をやろうと思われましたか?
赤木氏:こういう話をすると亡くなられた方とか怪我された方はたくさんいらっしゃるので不謹慎だと思われるんですけど、潰れた家の前で泣いてる人たちが、もう2日もするとみんなニコニコになっちゃってるんですよね。多分人間って自分の心と体を守るために脳や脳内麻薬物質っていうんですか、アドレナリンかエンドルフィンかドパミンみたいなものがいっぱい出てきて。僕も近所のおじさんと、もう毎日酒盛りをしていて、昼間は元気であちこち飛び回ってるっていう状態だったんですけど、記憶があんまりないです。
クリス氏:そうですよね。東日本大震災の時にもそういった状態になったというお話を聞きました。この数カ月、いろんな状況が気持ちのうえでもあったと思うのですが、そのあたりをうかがってもいいですか。
赤木氏:なんか感情のジェットコースターに乗っているみたいに上がったり下がったりするんですよ。僕はずっと大量のアドレナリンが出続けて3ヶ月ぐらい走り回っていたんですけど、とうとうなんかアドレナリンが切れちゃって。切れちゃうとすごいなんか鬱状態になって、朝起き上がるの苦痛という感じでもう本当に何もしたくないみたいな。今そういう人たちがすごい多いと思うんですね。
クリス氏:赤木さんの「小さな木地屋さん再生プロジェクト」は、そういった時期に始めたものですか? お写真を皆さんにも見ていただきたいと思います。
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震災後の池下氏の工房
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池下氏の工房から道具を入出する様子
赤木氏:池下満雄さんは、86歳で現役の輪島塗の木地職人(アテやケヤキの木からろくろを引いてお椀の形を削りだす仕事)さんで、その仕事場なんですけどね、1月6日に初めて無事かなと見に行ったらこういう状態で。昭和33年に建てた工場なんですけど、隣の崩れ落ちた土像に寄り掛かってかろうじて斜めになって止まっていました。近所に住む娘さんに話を聞いたら、86歳のおじいちゃんは15歳の時から72年間ここで職人として仕事をし続けた場所で、そこに2日間座り込んで「わしは避難所にはいかん」と言って動かなかったそうなんですが、2日目の夜に心不全を起こして意識を失って救急搬送されたという話をきいたんですよ。60年、70年、すっとこの場所で仕事をしてきて……。
クリス氏:そういった状況で、何とかしなきゃとプロジェクトが動かれたわけですね。
赤木氏:まずは屋根も崩れて雨漏りがひどいので、この材料が雨に濡れるとダメになっちゃうんですね。多分池下さんもそれをすごい心配してると思ったんで、とにかく安全な場所に材料を移して保管しなきゃいけないと、僕の奥さんの愛車の軽トラで、うちの職人さんと2人で荷物を積んですべて運び出して僕の工房の倉庫に移しました。話をすると悲しくなって涙が出るんですけど、多分池下さんもここで絶望したと思うんです。でもそのまま終わらせたらいけないと思ってここを元に戻そうと決めました。
岡山県の大工チーム
赤木氏:一番右の女性が【茶寮 杣径】のスタッフでその隣がお母さんなんですけど、お母さんは岡山でギャラリーをやっていて、ご主人は建築家なんです。そのこのギャラリーの展覧会をしたときに娘さんを誘って僕が連れてきたんですけど。その関係で建築家仲間が、輪島の様子をボランティアでお手伝いしようと来られたんです。木地屋さんの工房にご案内して、ここを再建したいと相談して。たぶん10人の内9人の大工さんは無理だっていうなかでも、この中の大工の棟梁が赤木さんという僕と同じ名前なんですが「この家は小屋組がしっかりしてて、柱は折れてるけどもちあげれば何とかできる」と言ってくださったんです。ざっくり見積もって1000万円弱でできるとのことで、僕はSNSを通じて寄付を集めたりっていうのは得意じゃないというか好きじゃないのですが、やむを得ず1回呼びかけたら一気に1,500万円くらい集まって、プロジェクトを始めて2カ月くらいでほぼ仕上がりました。桜の花が咲いた4月中旬頃には、池下さんが避難していた加賀温泉から戻ってきて、仕事を始めようというところでまた不全の発作を起こして入院したのですが、2週間で退院して今は元気に仕事をしています。
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工房で作業をする池下氏
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池下氏と新たなふたりのお弟子さん
クリス氏:そういったプロジェクトのなかで、多くの人から言われたことが2つあるそうですが。
赤木氏:1つは、こんな古いボロボロの汚い建物を再生してどうなるんだっていうことです。今、輪島の町は9割近い木造の建物がほとんど瓦礫の山のようになって、この後それ全部更地になって、工業製品の立ち並ぶ町並みに変わっていくと思うんですよね。それももう嫌だなと思っていて、輪島の本当に風情のある独特の職人さんの家の町並みっていうのを残したい。それで、その象徴として輪島で1番最初にこの建物が蘇ればいいなと思いました。
クリス氏:風景が変わるわけですからね。すごく悲しいし、さらに追い打ちをかけるような感じもしますし。池下さんの建物が元にもどったっていうことはシンボリックで、気持ち的にも大きな意味がありますよね。
赤木氏:そうですね。それともう1つよく言われたのは、86歳の職人さんの仕事場をつくってもその後将来そんなにないんじゃないかって。確かにその通りなので、うちの工房から2人出向させて、池下さんの技術を受け継ごうと計画しています。寄付いただたい残ったお金を資本に株式会社木地やをつくって、輪島の未来へ続けていけたらと考えています。
クリス氏:全壊にならないと補助金がでないなどの問題もありますが、そのあたりは割り切って始めたわけですよね。
赤木氏:そうなんです。皆さん、補助金で復興させようという風に思ってらっしゃるんですけれど、補助金ってまだその時はまだ模索状態で出ることも決まってなかったし、決まっても申請して実際に交付されるまで1年とかすごく長い時間がかかるんですね。それを待っていると、例えば輪島の場合すごい高齢化が進んでいて80代の職人さんたちは、そのまんま再建することもなく、補助金を申請することもなくフェードアウトして廃業していくっていう 場合がすごく多いと思うんです。僕はそれをどうしても防ぎたくて。
クリス氏:赤木さんご自身のお仕事も生活も色々と落ち着かないことが多々あろうかと思いますけど、そこにおいてもやっぱり人の説得をして、どうにかして輪島塗を守っていかなければいけないっていう、そういった危機感もあるということですよね。
赤木氏:そうですね、今回の地震が起こる前から輪島塗は、売り上げがピーク時から10分の1以下に落ち込んでいて、地震でとどめを刺されたっていう感じです。僕は1988年に輪島に行った時が輪島塗全盛期だったんですけど、滅ぶんじゃないかなと思ってたんですね。その時に僕はなぜだかよくわからないけど、この輪島塗を残すために漆に選ばれてここに来てるっていう自覚があったんですよ。その後、バブルの崩壊があって、リーマンショックがあって、自殺、倒産、廃業、夜逃げを見てきて、どんどんどんどん縮小していく中に最後にこの地震がぽんってきたんです。でも僕は、この地震はある意味ではチャンスだと思っていて、今まであった余計なものが全部振るい落とされてすごく純粋な本質的なものがこれから残って、蘇らせることができると思っています。
クリス氏:赤木さんが滅びていくと感じた理由や輪島塗の本質的なものという点についてもう少し詳しくお聞かせください。
赤木氏:もともと輪島塗は、生きている人と神様や亡くなった方が一緒に食事をするための道具なので、そういう原点にきちっと精神性を戻していくということと、ちゃんと使える シンプルな形にしていくっていう仕事を僕はしていています。それが先ほど話した純粋なものということです。一時期、すごく自分の力や経済力を誇示するものになったり、飾るためのものになったりして、必要ではあるんだけれど、僕は間違っていると思っていて。だから今回の地震を機に、本来の精神性という原点に戻るっていうことが、今すごく重要だし、それがこれからの未来を生きる人をある意味救っていくものになり得るんじゃないかなと思っています。池下さんのような職人さんは、わかっているだけで江戸時代からこの場所で同じ仕事をやっているんですね。体の中はいい形の血が流れていて、それをうまく引き出すのが主である僕の役割で、先祖や過去の職人さんたちと現在の職人さんたちの共同作業によって輪島塗ができていることが素晴らしいところです。
クリス氏:大事なものが見えてきたこの時期、赤木さんのように外から入ってくる若い人たちについてはいかがですか?
赤木氏:ぜひ若い人たちには入ってきてもらいたいです。うちの弟子も20人ぐらいいて、独立して漆職人や漆芸作家をやっていて、7人輪島にいたうち1人だけ残ってあと6人は外に転居してしまいました。子どもの学校の事情などもあり仕方ないのですが、その一方でまた入ってくる人もいると思うんですよ。なので、僕は集まったお金を資本にして株式会社木地屋を作りたいなと思うのは、そういう人たちの受け皿を作って、ちゃんと若い人たちを雇用しながら、今どこの日本中の漆器産地どこも木地屋さんがいなくなって困ってるので、供給できる体制にしていきたいと思っています。
クリス氏:現在も木地屋プロジェクトは支援金を募っていますか?
赤木氏:あまり積極的に告知していないのですが、ご寄付いただいた方に初めての職人さんがひいたお皿を返礼品として用意しています。
クリス氏:それはまたとない一枚ですね。この「小さな木地屋さん再生プロジェクト」を1つのモデルに、他の業界や輪島塗のなかで気持ちが繋がって増えていくといいですよね。続いて、赤木さんがかかわっていらっしゃる【茶寮 杣径】のお話もお願いします。今日もコラボレーションランチで準備に入られている北崎さんとのお店ですが、オープンして半年だったんですね。
赤木氏(左)と【茶寮 杣径】の北崎裕氏(右)
赤木氏:【茶寮 杣径】というのは、ローカルガストロノミーが今注目されていますが、能登のこの季節 にしか採れない地元の素材を料理人が自らの手と足で集めて、素材から料理を決めて出すという考えで す。能登のその場でしか体験できないものなので、それを輪島塗の器で出していこうということで、お料理だけじゃなくて輪島塗全体の復活というか、地震前からの計画で、能登にお客様に来ていただいて、食べて使っていただいて買って頂くという流れができたらいいなと思って始めたんですね。 去年の 7 月に完成してオープンして 6か月で全壊という笑っちゃうようなことになったんですけど、全然あきらめてはいなくて元に戻す計画が進んでいます。
クリス氏:その【茶寮 杣径】でもそうですし、【ESqUISSE】でも赤木さんの漆の器は使っていますが、料理と器の関係について、赤木さんはどう思っていらっしゃいますか?
赤木氏:難しい質問ですね。いや、実はあんまり中に何が盛られるかとかは考えてはいないですね。ただ、お料理と器はもう本当に同じもの。というのは自然の中にある素材を人間が加工して美味しくいただいたり気持ちよく使ったりするためのものなんですね。僕の場合は、北崎さんのお料理とすごく共通しているところは自然にある素材にできるだけ手を加えずに自然の素材の完璧さをいかに引き出すかというような仕事をしているので、もともとすごい相性がいいと思うんです。北崎さんの場合、お砂糖とかお醤油とか濃い調味料をほとんど使わずに素材の味を引き出す仕事で、僕も漆の良さを引き出してできるだけ何も付け加えないようにすっぴんのまんま仕上げていくというところで、すごくシンクロしているかなと思っています。
「NOTO NO KOÉ」で供された『水の歩み | 山菜のおひたし』と題した北崎氏による一品。器:赤木明登氏作 輪島紙衣汁椀、黒半月盆金縁
クリス氏:今回のお話の軸である地震やコロナなど、世の中の状況の変化でだんだん私たちが、やはり自然が大切だとか、シンプルとは何かとか感じるようになっています。冒頭のリオネルさんの言葉でも「能登は未来」という言葉があったように、今であり、未来であるように感じますが、赤木さんはもともと漆にあまり手を加えないというスタイルでやっていらっしゃって、周りの時代がシンクロしてきたように感じますか?
赤木氏:世の中的にはお料理の世界ではどんどん味が濃い時代がずっと続いてきましたよね。お料理は1番早いと思うんですけれど、やはり調味料の少ない素材感のあるお料理の世界にだんだんシフトしていると思います。器も味付けの濃い器の時代がずっと、昭和の陶芸なんかそうじゃないですか。でもやっぱり味付けは少ないけれど素材の良さをしっかりと引き出す、そしてそれが人の心を救ってくれるということを皆さんご存知で、そういうものに手を出していただけるんですね。ただ北崎さんのお料理で お砂糖の醤油も使ってないと味がしないっていう方も少なからずいらっしゃるんですけれど、そういう方にやっぱりちゃんとこういう食事なんだよっていうことを伝えるには言葉の力も必要なんですね。それで僕出版社を作っちゃったんです。
クリス氏:そうなんですよね。【茶寮 杣径】の後でしたっけ。お考えとしては一緒だと思うのですが、出版社ではどのようなことをやっていらっしゃいますか?
赤木氏:僕ら昭和生まれは、本の物質性がすごく重要だったと思うんですけど、今は読んで情報取ったら捨てられる時代じゃないですか。でもやっぱりちゃんとした工芸的な本を作れば読んだ後も大切に取っておいて繰り返し読んでいただけるなと思って、そういう工芸的な本作りをしっかりする「拙考(せっこ)」という出版社をつくりました。地震のあと3月10日に『工藝とは何か』という本を出しました。
クリス氏:出版社も輪島ですか?
赤木氏:輪島です。海岸沿いのすごく綺麗な集落の中の1軒なんですね。【茶寮 杣径】のもとの店舗の工事が2年くらいかかるので、今、金沢で 5月いっぱい営業しているんですけど、できるだけ早く能登に戻ってきて営業を続けたいと思っているので、その出版社の建物を仮店舗に改造しているんです。仮店舗になったら、しばらくの間は地元の人たちが予約をなしで気楽に食べていただけるような【食堂 杣径】みたいな感じで営業できたらいいなと思っているんです。今はそうやって走り回っていたら、僕の仕事はまだ始まっていないということに気づいて、これはまずいと思ったところで、アドレナリンが切れちゃった状態です。
クリス氏:いや、本当に考えられないですよね。今日は能登の声というタイトルで、赤木さんの声、その周りにいる方の声を聴かせていただけるという有難い機会ですが。ここからは赤木さんご自身のお仕事についてお聞かせください。もともとご自身のお仕事だけでも引っ張りだこなわけですから。
赤木氏:今年で独立して30年なんですが、前半はもう全部キャンセルさせていただいて、8月に銀座の和光さんの9階のセイコーハウスホールで30周年記念展覧会をさせていただくのを目指しています。
クリス氏:漆に選ばれたわけですから、(お忙しいのは)仕方ないですね。多くの周りの方も赤木さんあって繋がっていることもあると思いますので、引き続きご尽力を、そしていろいろなかたちで発信していただければと。皆さまもぜひお心に響いたことをさらに伝えていただければ嬉しいです。
第2部
「炊き出し」体験で知った料理人のミッション、 あたらしい能登の食文化 (池端隼也氏・平田明珠氏)
能登の料理人の絆を語る平田氏(左)と池端氏(中央)、クリス氏(右)
クリス氏:第2部では、【ラトリエ・ドゥ・ノト】の池端隼也さん、【ヴィラ・デラ・パーチェ】の平田明珠さんのお2人をお迎えしてお話をお伺いしていきます。早速ですが、1月1日、震災が起こった後から炊き出しに動いてらっしゃるおふたりなんですけれども。ちょっと振り返るのもお辛い部分があると思うんですけれども、池端さんのお写真から拝見していきましょうか。
震災後の【ラトリエ・ドゥ・ノト】の庭の様子
池端隼也氏(以下、池端氏):ここはお店の中庭ですね。2階は、ぐちゃっとつぶれた感じです。レストランに関しては耐震にしたのでつぶれていません。普通は1階が潰れて2階が1階みたいになるのが多いのですが。
クリス氏:ご自宅やご家族はどういう状況でしたか?
池端氏:重度損壊という形だったので、今はキャンピングカーにいます。
池端氏と炊き出しチームによるシチュー
クリス氏:リオネルさんのインスタグラムで出していましたが、早い段階から動いていらっしゃいましたよね。
池端氏:そうですね。震災の日は輪島の隣町の穴水町にいて、消防署がすぐ近くにあったので行きましたら、非常食でカップラーメンとお水はあったんです。電気が止まっていたのですが、たまたま電気が使える車だったので、初日の夜はずっと、どん兵衛を作っていました。次の日に輪島に帰って、さっきのお店の状況を見ました。僕たちの場所は観光地なので、どの飲食店も2日から営業するんですね。だから冷蔵庫にパンパンに食材が入っているんです。そこから引っ張り出して、輪島では2日の日から炊き出しを始めました。周りの飲食店や魚屋さんとか誘って、とりあえず1500人前ぐらいは作れる体制を作らないといけないいうことで動きました。みんな誘って作り始めたので、近くのレストランの提携農家の方とかはその時に全部持ってきてくださいました。
クリス氏:こちらは、平田さんのお写真ですか。片付けだけでも途方にくれますね。
震災後の【ヴィラ・デラ・パーチェ】の店内の様子
平田明珠氏(以下、平田氏):お店とか家のある集落はほぼほぼ建物倒壊とかなくて大丈夫だったんですけど、歩いて5分位行くと倒壊した家とかもあって。すぐ近くでも全然被害が違います。僕は元旦は東京にいて、2日の早朝には東京を出て昼ぐらいには着ければなと思っていたのですが。スタッフが金沢エリアにいて彼らに先にお店に行ってもらって、状況を見てもらって、掃除もし始めてもらっていました。だから片付けは割と他の所に比べれば早い方かもしれません。でも水が出なかったのでワインとかも流せなくて大変でした。
クリス氏:炊き出しはどのような状況でしたか。
平田氏:2日に戻って、近くの集落の人たちの話を聞きながら状況を調べました。お店の冷蔵庫に食材を残していたので、とりあえず残っているものでカレーとかでも作れば地元の人が食べてくれるかなと思って、2日の夜から仕込みを始めて、3日からうちの店で、まず自分の集落の人たちにカレーをお出ししました。でもお米がなかったので、お米を持ってきてもらって、ルーを渡すみたいな感じで最初やっていました。
クリス氏:さっき池端さんもおっしゃっていた、料理人同志の繋がりや地域との繋がりということが、こういう時には再確認されますよね。地震が起きてからは、池端さんと平田さんもですが、横の連絡も取れない、なかなか携帯が繋がらないという状況だとどのように情報共有されましたか。
平田氏:電波は弱かったので、電波あるエリアに入ったら連絡していました。2日の朝に池端さんと連絡が取れましたよね。ぼくは能登に向かってたんですが「お前こっち来たらあかんぞ」みたいに言われて。でももう行っちゃってるし……。
クリス氏:あかんというのは大変な状況だからですか。
池端氏:最初の頃はひどかったんです。輪島市内はお亡くなりになった方とかもいらしたし、状況は当時わからなかったんですけど、金沢から輪島に向かって、石川県の南からグラデーションのように被害が大きくなっているんです。輪島の方がひどかったんだと思うんですけど、僕はそこしか目にしないので、来ない方がいいよって伝えました。ちっちゃいお子さんもいるので、そういう話をしたんです。
クリス氏:そうですよね、こういう時に連絡を取り合うっていうのは、元々繋がりがあったからですね。能登の料理人の方々も今回見てもすごく動きが早いし、繋がり方、力、パワーがものすごくあるというところにもぐっと来るんですけど、元々の繋がりはあったり、活動は募集されてたりしますか。
平田氏:活動自体は、スタッフのソムリエの塩士が熊本地震の時に金沢の料理人を集めて繋がりを作っていたので、それがそのまま今回動いてくれました。僕はそこに対して支援の要請だったり、状況を伝えたり、情報の行き来は割とできました。あとは、インスタグラムのストーリーとかで池端さんが結構発信をされていたので、一応無事でいるっていうことが確認できて、輪島の状況はどういう状況か池端さんのSNSを見て、僕もできるだけ、情報発信した方がいいなと思ってアップしたりしました。多分、それを見た料理人仲間が連絡くれたりとか、その繋がりあるメンバーで、炊き出しを一緒にしてくれたりとか、必要なものを持ってきてくれたりしました。
クリス氏:炊き出しも普段レストランで用意されているのともちろん全く違うわけで、段階によって違うと思いますが、その辺りは実感としてどうですか。
池端氏:最初は電気も水もないですし、僕の炊き出しもビールとかアルコール飛ばしてスープにしたりしてたんですけど、最初はやっぱり命を繋ぐための食事なんですね。最初はもうレトルトとかそういうものしかなくて、大体1週間ぐらい炊き出しした時に、高齢者が多い 町なので、2次被害じゃないですけど、やっぱり高血圧になってしまって。すぐ薄味にすぐ切り替えました。炊き出ししは日常食なので。
クリス氏:やっぱり食イコール命っていうことは、改めてレストランとは違う形で認識されますよね。
池端氏:今回、僕らもそれぞれ実は連絡が取れてなかったので、多分外から見ると、料理人が一致団結してその地域で協力してやったっていう風に見えるかもしれないですけど、それよりも、それぞれが皆その地域に根ざしているので、地域の人に野菜取ってもらったりとか、お料理教えてもらったりとか、それぞれが小さいコミュニティでやってきたので、みんなこの地域で何も言われなくても同じように自然的にやったんですよね。で、実際平田さんと会ったのは2月入ってからで、めっちゃボロボロ泣きましたけど。
平田氏:そうです。それぞれもう目の前のことでいっぱいだったので。
クリス氏:平田さんは炊き出しをされていて、使命感っていうのもあったと思いますが、その地域の人たちに対してどういうものを出そうとか、食は命とか繋がってるとか、そういうことは考える時がありましたか。
平田氏:そうですね、池端さんと僕もそこは一緒で、最初はもうあったかいご飯を食べられるだけで、みんなこう喜んでくれてたんですけど、割と早い段階で 僕は七尾市の指定の避難所の中島小学校につきっきりで運営をやりました。実際に自分が料理を作る、手を動かすっていうよりか、炊き出しに来てもらって、その人たちが作ってもらえるような動線を作ったりとか、環境を整えたりとか、炊き出しのスケジュール管理だったり衛生管理っていう方に極力力を入れるようにしました。実際手を動かしてしまうと、その管理や運営ができなくなっちゃうので。
避難所の小学校で炊き出しの列ができている様子
クリス氏:こちらは、家庭科室とかなんでしょうか。
平田氏:そうです、家庭科室で作ったものを食堂に持っていって、配ってそこで食べられるようにした時の写真です。だんだん炊き出しに来てもらえる方も増えてきて、企業さんとかも連絡があって入ってもらうようにしたんですけど、どうしても炊き出しに来てもらうと、作るものが牛丼と豚汁とか、その夜に、牛カルビカレーとかで、避難所ってほとんど高齢者ばかりで、そういう食事が続くとやっぱり血圧が上がって救急搬送されてしまう高齢者の方とかもいらっしゃってまずいなという状況もありました。
クリス氏:炊き出しも、気持ちがあってボランティアで来てくださり、やるしかない、やれることをやるっていうことだと思いますが、ボランティアのあり方っていうのも考えるべきことですね。どうしてもニュースだと、炊き出しがありました、じゃあよかったねという感じなので。熊本の地震で1回チームができたからこういう時に動けるということと同じように、想像力が経験と一致していないと、これから何かが起こった時っていうことを思うと、考えておかないといけないですよね。
池端氏:震災を経験したので、東京の町に来た時に、ここで起きたら大変なことになるなっていうのは感じますね。なんか考えてしまいます。そしてコミュニティがやっぱりないと思いますね。
池端氏:あとは、実際、震災直後はたくさんの方が支援してくれるんですけど、実は町とかはこれからが大変な時なんです。そして、僕もですし、赤木さんもさっきおっしゃっていましたけど、メンタルがやられるんですよね。 僕は1週間前すごくやられてて、本当に誰とも会いたくない気持ちだったんですけど、無理やりぐっと押し出してくれたんでよかったんですけど、なんかこう……。ずっと今も炊き出しをしてるんですけど、現実っていうものがぱっと目の前に来て、これからどう生きていくんですかっていうのが、住んでる人は皆それが目の前にあるんですよね。実は今が1番サポートが大事っていう事ですね。お金も全然ない方もたくさんいらっしゃいます。なので、報道がどんどんどんどん減ってくので、忘れ去られるんじゃないかと危機を感じます。
「NOTO NO KOÉ」のイベントのため【ESqUISSE】の厨房で調理をする平田氏(左)と池端氏(右)
クリス氏:今回は、それこそだんだん報道も少なくなることも考えて「能登の声」をどうやって届けたらいいかということもあって、この【ESqUISSE】で「NOTO NO KOÉ」のイベントを開催されたのですね。話を今回のお料理に移したいと思うんですが、久々に料理をしたような感じでしょうか。能登のいろんな美味しいもの、食材も今回のコースに目一杯詰め込む気合で皆さんやっていらっしゃるんだと思うんです。まず、今回の「NOTO NO KOÉ」で料理をしようっていうことになりまして、それは、池端さん、平田さんがよし、やろうっていうことですぐ始まったんですか。
池端氏:多分違うかもしれない。その、僕は正直、震災で、なんていうんすかね、こう、幸せのレベルとして、ちょっとしたことで幸せを感じるような人間になっちゃったんですよ。で、料理に関しても、楽しくて、もうこのレベルで十分満足、自分も満足するし、なんか、炊き出ししてるとそうなっちゃうんですよね。でも、自分の中ではそうじゃダメだっていう自分がいて……。だから、今日は本当にね、なんか震災から何か月ぶりぐらいに、【ESqUISSE】の調理場では久しぶりにテンションが上がってる感じで、チャレンジです。僕にとっては。
クリス氏:それは、料理人として自分がやってきたことを考えたり、この後続けられるのかとか。
池端氏:そう、いろんなことを考えてる。
クリス氏:今回はコラボレーションという形で、料理を作ろうよっていうことで、メニューがやっと上がってきているんですけど、きっと繋がってらっしゃる生産者さんたちの食材もあるのかしら。
「NOTO NO KOÉ」で供された『郷愁|イタドリと能登の塩』と題した平田氏による一品
平田氏:僕に関しては、使う食材、ほぼほぼ自分で、山へ行って取ってきたものです。塩はお亡くなりになってしまった生産者の方の塩を使っているんですが、今後もずっと使い続けたいと思っています。メニューの『郷愁|イタドリ 能登の塩』です。もともとリオネルが5年前に彼の所に来てくれて、そして【ESqUISSE】が能登に来て一緒にイベントをやったんですけど、またずっと一緒にイベントをやりたいねってこの3人でずっと話してたんです。だから、今回、この話があった時は、もう二つ返事でOKでした。ずっとやりたかったので。うちは2月末に断水も解消されてインフラが戻ったので、3月末から営業再開ができています。炊き出しの避難所からも1月いっぱいで運営からは出て、2月は自分のお店の再開と、石川県から出てイベントに行ったり、料理する機会はあったので、感覚が戻る機会がありました。やっぱりちょっと最初、2月の最初のイベントの時に、いきなりコースを作るってことになった時に、全然気持ちが戻らなくて、気持ちが乗ってこないのはあったんですけど、やってると、だんだん戻ってきた。結局、炊き出しもコー スの料理も、食べる人のために、どうやったら幸せになってくれるかっていうのを考えて作るという点で一緒だということに気がつきました。そして、逆にコース料理だったり、フランス料理イタリア料理と言われる料理を町の中で作るのが自分の役割なんだなってのがわかった。今は色々料理することに対してすごく前向きに、意味のあることだと考えるようになりました。その中で自分ができることを今回やりたいなと思ったので、自分で森の中で収穫をしたり、そういう料理のスタイルはそのままやりたいと思っています。
クリス氏:仕事って、ひょっとするとなんでもだと思いますけど、その場だけではなくて、色々考えたりしたことがレイヤーになって、表に出るわけじゃないですか。様々な出来事の中で、集中力とかものを作る気持ちが途絶えるっていうことはなかなかの大きな影響だと思います。でも今回、皆さんでコースを考える時に、どういう風に能登の味を感じていただこうかって場合に、どんな話し合いがあって、いつぐらいに固まってきたんですか。
平田氏:最近。先週。
池端氏:ぎりぎりです。
クリス氏:そりゃそうですよ、そうですよね。
「NOTO NO KOÉ」で供された『レジリエンス|七面鳥、しいたけ、みょうが、能登のハーブ』と題した池端氏による一品
池端氏:震災があって、能登のものは何でも今までと同じようには揃わないですよね。なので今あるものを。僕は、今日は近くの七面鳥を使うんですけども、70歳で1度癌を患った生産者さんのものです。道路が繋がった時にすぐ訪ねていったら、「おれはやるよ」みたいに言ってくれて、なんかすごく嬉しくて。で、なんかその大村さんの気持ちを料理にしたいなと思った。だから今回料理を考える時はすぐ大村さんの七面鳥を使おうと考えました。 椎茸は幸か不幸か震災があったので、めっちゃ出たんですよ。雷とか刺激を与えるとスイッチが入ってパッと出るんです。なので、地震あったことでたくさんあったので、大体4月ぐらいの椎茸を取りに行って、乾燥させたものを使いました。能登のハーブもね。
クリス氏:食材に関しても、関係性があるわけですね。生産者の方々との繋がりあってのお料理だと思うんですけど、生産者の方たちとは、どういう繋がりがあるのですか。
池端氏:ウエダ農園さんって、炊き出ししてた時に持ってきてくださって、彼もやりたいと言っています。ただ住む人が輪島市に関しては3の1ぐらいになりますし、スーパーもなくなって、今と同じような生業ができないので、クラウドファンディングのような新しい形でやりたいと言っています。
クリス氏:ちょっと能登のこれからということを少しご想像ができるか教えて頂けますか。新しく変わっていく部分もでてくると思うんですね。それをいい風に、どういう風に力にするか。平田さんは今、料理人としての目で、別に未来のことじゃなくていいんです。届けたいことは何でしょうか。
平田氏:そうですね、一応僕のお店も再開して、建物だったり自分の暮らしに関して言えば、 割と復旧というか、元の暮らしに近づいてる部分もあるんですけど、その反面、同じ町の中でも、まだ断水が続いている家だったりとか、仮設に入って不自由な生活をされている方とか、あと仕事自体がもうなくなってしまった方とか、大変な状況の人がいて、差がどんどん今広がっている状態です。そこで僕がお店を再開しましたとか、こういうイベントやってますとか、お店来てくださいとか、そういうポジティブな声を届けるのって結構危険もはらんでると思っています。それが今の全体の能登の声っていう風に捉えられがちな部分もあると思うので。とは言いつつも、やっぱりお店にお客さんも来てもらわないといけないし、再開したお店もだんだんと増えてきて、能登全体に人が今来てもらわないといけないので、その発信のバランスとか、ただ自分だけがどんどん突き進んでいっていいものかとか、やっぱり地域あっての自分のお店なんで、町全体を引っ張り上げて、みんなを掻き混ぜて、今、人に来てもらって、皆で何かするとか、楽しいことやったりとか、そういうのができるようなことがこれからすごく大事になっていくと思う。だから今回、池端さんに来てもらうことがすごく大事だと思っていたんです(涙)。すいません。 池端さんはまだ気持ちがのってきてないっていうか、明らかに気持ち的に難しい状態なのか、と思ったんですけど、やっぱり僕が引っ張らないと、輪島でこういう料理作れるのって池端さん一人だけなんで、彼がこういう料理の方に戻ってきて、戻って、戻ってきてくれないと、能登にとってすごくもったいないっていうか、大事なことだと思ったんで、だんだん、のってきてくれてるのも、昨日一緒に仕込みしてて、一緒に用意して作ってたんで、すごく良かったなって思って。それだけで今回来て良かったなって思うところもあったんですけど。うん。なんかこういうイベントってすごいなって、まだ1回も料理してないんですけど(笑)。
池端氏:まだ料理仕上がってないです。(会場笑)
【ESqUISSE】の厨房でお揃いの「NOTO NO KOÉ」のTシャツを着て笑い合うシーン
平田氏:あと、できてすごくよかったなって。いや、もう終わりみたいなんですけど。
クリス氏:でも、それぐらい、ここに来ることがいかに大変かっていうことを感じます。うん。池端さんね、愛されてますね。それだけ尊敬されるべき存在なのですよね。
平田氏:これで終わりにしたくなくて、今回【ESqUISSE】でイベントをしますけど、また、【ESqUISSE】にやっぱりこっちに来てもらいたいです。皆で料理をする機会っていうのは、今回だけじゃなくて、これからもずっとやっていきたいなって思うので、今日からスタートしますけど、成功させて帰りたいなと僕は思ってます。
池端氏:炊き出しメンバーも輪島市内のラーメン屋さん、居酒屋さん、スペインバルなど多いのですが、徐々に制度や形が変わってきて、みんなで生業しましょうってことになっています。輪島市で、飲食店ってやっぱり明かりともしたいとか。飲食店があるだけで、その街が明るくなると思うんですよね。
池端氏:そうです。だから、それをみんなでやりましょうっていうことで、今、前を見て動いています。
クリス氏:今おっしゃったように、コミュニティあってのレストランということでしたが、好きなレストランだったり、通いたいレストランだったり、それは食べに行くのもそうですけど、その人に会いたいとか、その人の料理を食べたいとか、そこで行くと会える人がいるっていうのがレストランですよね。だから、コミュニティの中におふたりのレストランはあるんだなっていうことも責任も感じていらっしゃると思います。あと、さっきおっしゃった、自分の所だけのことを言うのも話が違うでしょうし、色々気を使って周りを見て動いてらっしゃる気持ちも、察することも難しいこともあるんですけど。まぁでも話したくないことがある中で、どうもありがとうございます。ぜひ皆さん、自分の心身を通してお感じいただきたいな思う、能登の声です。
ベカ氏から能登へのメッセージ
「NOTO NO KOÉ」で供された『小さな命のささやき|野菜とハーブのプレート』と題した【ESqUISSE】による一品。器:赤木明登氏作 古銀丸折敷大
最後に、リオネル・ベカ氏は、能登への想いを次のように語っています。
高潔で美しく、野性的で豊かな土地、能登。
海は滋養に富み、風は潮の香りを運ぶ。
能登の光はどこまでも透明で、時間はゆったりと流れ、
木々は互いに語り合う。
能登の自然には神秘の力が宿る。
それは古くから伝わる普遍的な言語でもあり、
限られた人しか聞き取れない言葉でもある。
能登の人々は、人類の未来に対する答えを秘めながら
そこに暮らしている。
だから能登は何度でも生まれ変わる。
撮影/合田昌弘 取材・文/外川ゆい
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