和食の名店でカウンターのあり方を学び、代々木上原の住宅街で世界観を開花させる料理人に注目|【茂幸】
閑静な住宅街である渋谷区西原に、2020年4月、舌の肥えた大人を集める和食店が誕生した。店主は【麻布 幸村】で9年研鑽を積んだ菅野茂男さん。師匠の姿からカウンターの美学を吸収した菅野さんが提供するのは、ひとりひとりを気遣ったパーソナルな食体験だ。
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生まれ育った地に本心から惹かれるものを集めて店を作った
器をきっかけに生まれるストーリーのある料理
日本料理歴22年の手仕事に見惚れるカウンター
生まれ育った地に本心から惹かれるものを集めて店を作った
【茂幸】が居をかまえるのは、店主の菅野茂男さんの生家があった静かな住宅街だ。「板前の道に進んだ時から、愛着のあるこの場所に店を出すと決めていました」と菅野さん。
代々木上原駅から徒歩10分、民家が並ぶ小径に立つ【茂幸】
赤みを帯びたカリンの木のカウンターに腰掛けると、目に入るのは祖母の嫁入り道具だったという箪笥や個性豊かな器の数々。初見でも緊張感がすぐ解けるのは、店主の朗らかさと温もりある空間のおかげだろう。
菅野さんはラジオを聴くのが好きで、対面での接客にもいい作用があると考えている。お気に入りはナイツの「ちゃきちゃき大放送」
「空間はかっちりし過ぎないことをイメージして、民芸調に作りました。白木じゃなくて赤い木のカウンターにしたのは、使っていくなかで美しくなっていく場所にしたかったから。うちの店も、利用していただくほど充実してもらえるような場所になったらという思いもあります」
昭和初期に祖母が嫁入り道具にもってきた箪笥は時代を経て食器入れになった
客の目の前で料理を作るのは9年学んだ【麻布 幸村】と同じ。料理の技術のみならず幸村 純氏の影響は大きい。
「カウンター越しに料理を作るとは何たることか、学んだつもりです。直接言われたわけじゃないですけど、カウンターに立つ姿から伝わってきました。料理の答えはお客さんひとりひとりにしかないから、それを見極めて出せる人間になれと教わったと思っています。自分の我を通す料理と、お客さんに合わせる料理を使い分けながら、最適なバランスで提供できたら」
器をきっかけに生まれるストーリーのある料理
青森の郷土料理の“いちご煮”の進化版でもある『いちご煮素麺』
カウンターの醍醐味を大切に、「食べたあとにすっきりしつつも満足感の高い料理」を意識している。季節ごとに品数も構成も変わるコースは1万5,000円からの1本。お酒はひとり2,000円で何本でも持ち込み可能とあって、ワイン好きの会が行われることも多い。
気候も考慮した料理はスタートから高揚感を与えてくれる。例えばまだ暑い時期の一品目は、看板メニューでもある『いちご煮素麺』だ。
鮑を炊いた際のだしと鰹昆布だしを合わせたものをかける
それは螺鈿(貝飾り)の梅が施された器をヒントに生まれた料理で、梅を練りこんだ素麺の上にたっぷりのウニがのる。螺鈿にちなみアワビのペーストを敷き、仕上げに冷たいおだしを注ぐ。よく混ぜてちゅるっとすすれば旨みとともに清涼感を味わえ、調子は上々。
菅野さんは器から新しい料理を考案する名手であり、八寸も然り。
大徳寺のお盆の色合いがカリンの木のテーブルによくなじむ
大徳寺と書かれたお盆で提供する八寸は、お寺をイメージした野菜だけの精進料理。お重を引き出しお盆に移すアクションも楽しく、野菜のみといえども充足感は満点だ。
加茂ナスに添えられた吉野味噌もジュンサイに張られたトマトウォーターも、野菜の滋味を引き立てつつ、すっと引く味わい。
日本料理歴22年の手仕事に見惚れるカウンター
「鱧は淡路が一番旨みが強い」と鱧に関しては産地を指定
日本料理の仕事を間近に見る時間もコースの一部。小気味よいリズムで鱧の骨切りをする音も、備長炭で火入れする香りも、口に入れるまでの序章だ。
9月になると【麻布 幸村】で学んだ『松茸の鱧巻き』を提供する
菅野さんが目指す鱧の火入れは、皮はパリっと香ばしく、身はふっくらした焼き上がり。その瞬間を見極めつつ、醤油焼きと塩焼きに分けた「源平焼き」で好奇心をそそる。
「昔、源氏と平氏が白と赤の旗をもって戦ったので、源平焼きと呼ばれています」と知らない人に気さくに解説して、昔ながらの仕事を伝承。
手間がかかるため源平焼きとする人はいまでは少ない
塩と醤油で味わいの違いを比べるのはもちろん、一緒に食べれば口内で似て非なる風味が重なり、新感覚のおいしさ。さらに木の芽の香りが鼻を抜け、皮と身のコントラストもたまらない。未知なる鱧の魅力に気づける一品だろう。
花山椒のタルタルソースを添えた『時しらずのフライ』。中は半生でしっとりした舌触り
北海道産の時しらずのフライに合わせるのは、花山椒の酢漬けと実山椒の油煮を加えたタルタル。花山椒を惜しみなく使用し、香り高い一品に仕上げている。フライは季節により魚種が変わり、冬にはふぐの白子になることもある。
1階が店舗で2階は菅野さんの住居。柴犬2匹と保護猫2匹と暮らしている
【麻布 幸村】への尊敬を込め、店名には“幸”の字が入っている。実は、奇遇にも【茂幸】という名は京都の料亭での修業時代から決めていた。
「僕(茂男)が作った料理で人を幸せにして、その幸せに支えられるような店でありたいと思って考えた名前です」
しかし【茂幸】では自身の名の下に【幸村】が入るため、それはよくないと幸村さんに相談。すると、「どうぞ、使ったらええやないか」とさもないことと返されたとか。
「家族のお祝いごとに利用していただくこともあって、ありがたいです」と菅野さん
最後、もうひとつの由来が語られた。
「辛いっていう字あるじゃないですか。あれに1本棒を足すと、幸せになるっていうでしょう。その謎掛けは、僕は、食いしんぼうだと思っているんです。食いしん棒を足して、みんな、幸せになって帰ってくれたらいいなという意味も入っています」
満腹になって住宅街を歩く帰り道、満たされた人の足取りは軽やかになっているはずだ。
撮影/今井 裕治 取材・文/大石 智子(フリーライター)
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