中国の麺料理に起源を持つ日本食ラーメンの歴史
いまやパスタに並ぶ程に世界的な麺料理として認知されつつある日本を代表する近代和食「ラーメン」。スープと麺と具材の三位一体で作られる珠玉の丼グルメだ。明治に産声をあげ、大正・昭和と激動の時代を経て、日本人の汗と涙によって完成されていく歴史を辿り起源を探る。
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ラーメンとはいったい何か?
水戸黄門が食べたのはラーメン?
本邦初のラーメンは【来々軒】
ラーメンとはいったい何か?
明治の横浜開港から南京町と呼ばれていた中華街
世界中の麺食いから愛されるラーメンを考察する
ラーメンはもはやカレーやとんかつと並んで、日本を代表する近代和食のひとつといってもいいだろう。最近では海外に支店を出す世界的に名の通ったラーメンチェーン店が現れるなど、世界的なラーメンブームがナルトのように渦巻いている。(漫画『ナルト』も世界的に有名だが)
とはいえ昔から当たり前の様に生活の中にあったラーメンに関して、ことさら「ラーメンの定義とは?」などといったテーマで真剣に考察を巡らすことも無い。たまたまラーメン屋に入って、湯気の上がる丼を前にして、そんな命題がふと浮かぶことがあったとしても、目の前のオヤジにカウンター越しにわざわざ聞いてもなんだか雰囲気が悪くなるし、かといってそのまま考え込むと、目の前の麺がのびるしで、やはりその考察は中断しラーメンだけに、こりゃあ面倒とばかりにズゥズゥッと麺を啜って、スッカラカンと忘れることがもっぱらなのである。
それでも最近は、世界的ラーメンチェーン店の店先に、欧米からの観光客ならまだしも、ラーメン発祥国である中国からの観光客の並ぶようすを見かけると、ふと「日本のラーメンとは何か?」と考えさせられるのである。
ラーメンのラーメンたる所以
「横浜ラーメン博物館」でも展示されている元祖ラーメンの「経帯麺」のサンプル。
そこで改めて調べて見ると、日本のラーメンには明確な定義があったのである。それはもちろん器では無くスープでも無い。そう麺にあったのだ。
ご存知の通り麺の原料は小麦なのだが、日本のラーメンの麺には必ず鹹水(かんすい)が使われなくてはいけないようである。
鹹水とは簡単に言えばアルカリ性の塩水だが、これを小麦に混ぜて練り込むことにより、麺にコシが生まれるというわけである。その他にもこの鹹水によりラーメン独特な麺の特徴を作り上げている。
例えば、先にもいったがこのアルカリ性のために小麦粉の持つフラボノイド色素が反応して黄色く変色することが挙げられる。ラーメンの麺がたいがい黄色いのはそのためである。また小麦粉の中にあるαデンプン(生のデンプン)がこの鹹水によりβデンプン(可食状態のデンプン)に化学変化することにより、ラーメンの麺の茹で上がりが他の麺に比べて早いという。これなどはラーメン店の営業効率の面から考えれば、けっこう重要なポイントかもしれない。
以前筆者が滋賀にある手打ちうどん屋で働いていた頃を思い出す。打ちたてをウリにしていた店だっが、そのあまりの茹で時間の長さにシビレを切らして帰っていったお客さんがけっこういた。当時少年だった私の心には“うどん喰いは気が長い”と刻まれたのであった。鹹水を使っていればスグに茹で上がっていたのだろうが、もはやそれではうどんでは無く「名代、手打ち太ラーメン」と看板を替えなければいけないことになる。
その他に鹹水の特徴として小麦粉の中にあるグルテンがタンパク質変性をおこして、麺が縮れやすくなることも挙げられる。
そんな黄色い縮れた麺とスープに具材としてシナチクとチャーシュー、そして刻んだ生ねぎがパラパラとかかっていたらそれは完全にラーメンなのである。ちなみにラーメンに必ずシナチクを入れるのはなぜか日本だけだという。さらにそこにもともと蕎麦のトッピングだったナルトも加わるわけである。
水戸黄門が食べたのはラーメン?
亀有にある日光街道の黄門様。本邦初の座が奪われてどこか寂しげ
ところで中華料理の汁麺の麺には鹹水を使わない麺がけっこうある。有名なところでは鶏卵と小麦だけで作る全蛋麺(ぜんたんめん)や、小麦と卵白だけでつくる、一見すると白くて冷や麦みたいな麺などもあるという。
ついでに言うなら日本で最初に(元禄10年=1697年)ラーメンを食べたとされているあの水戸黄門こと、水戸中納言光圀のその時の麺は、鹹水を使わずに蓮根をつなぎに使用したとの記録が残っているため、先の定義からしてラーメンでは無いとする意見もある。ところが最近のこと、室町時代の三代将軍である足利義満により創建された京都の『相国寺』の寮舎にいた僧侶の日記である『蔭涼軒日録』(いんりょうけんにんろく)に(長享2年=1488年)に小麦と鹹水を使用した経帯麺なる正真正銘のラーメンを食した記述が発見されている。まさに我が国のラーメンの歴史が塗り替えられたわけである。
本邦初のラーメンは【来々軒】
旧【来々軒】のあった場所とされる、浅草【すしや通り】(すしや横丁)に入って二つ目の右側角の場所には現在がホテルがある(写真左角)
では日本で最初にこのラーメンが登場するのは、やはりトンカツやカレー同様に明治時代に入ってからとなる。
まずは横浜開港と供に中国料理の白濁した豚骨の塩スープの汁麺が上陸している。当初はもっぱら居留する中国人相手のメニューだったという。その後に日本人の口に合うようにさっぱりとした今やお馴染みの、ラーメンの原型ともいえる鶏ガラ醤油スープが完成し、晴れてメニューとして提供されたのが、明治43年(1910年)に浅草で開業したその名も【来々軒】においてであった。
当時はまだお馴染みのシナチクもチャーシューもなくほぼ具無しだったという。そして当時の呼び名は今では懐かしい「支那そば」であった。
大正時代に入ると東京でもこの「支那そば」を出す店が増え始め、大正7~8年ごろには米一升が20銭の時代に1杯10銭というから、現代のラーメン専門店のトッピング全部乗せぐらいとほぼ同じぐらいの価格で提供されていたことになる。
ところが大正12年の関東大震災がきっかけに焼け出されたそれら中華料理のコックが、一斉に屋台を引き出したことにより屋台のラーメンが一気に広まっていくのだった。チャルメラの興隆の始まりである。
ポテンシャルを秘めたラーメン
新しい文化であるラーメン発祥の地に相応しく、旧『来々軒』が開店した地区は明治になって再開発された飲食店街だった。
ちなみにラーメンの語源は「拉麺」や「老麺」または「柳麺」(供に呼び名はラーミェン)さらには「肉麺」(ロウミェン)と様々あるが定かでは無い。「拉麺」とは引き延ばして作る麺で北京の麺文化であり、「柳麺」は麺を棒で強く伸ばして平たくしたものを包丁で細く切った中国南部の麺文化である。と言うことは麺の製法からすれば、現代のラーメンの麺は「柳麺」系ということになるのかもしれない。
戦後になるとそれまでの「支那そば」から呼び名は「中華そば」に替わっていく。
しかしその「中華そば」もいまでは、中華料理店や日本蕎麦店などにおける呼称となり、専門店では今や主流の「ラーメン」に統一されているのである。
「食欲とはかつての好ましい経験からくる食物摂取の欲求である」とは、アメリカの生理学者ウォルター・B・キャノンの言葉だが、それでいくとラーメンは、一鉢で麺やスープや具材により、啜るを始めとした様々な口腔感覚という好ましい食の経験(快感)を日本人や世界中の人に提供し続ける、人類史上稀有な料理なのかもしれない。
取材・文/薬師寺 十瑛
オヤジ系週刊誌と月刊誌を中心に請われるまま居酒屋、散歩坂、インスタント袋麺、介護福祉、住宅、パワースポット・グラビア編集・芸能そしてちょっと霞ヶ関と節操無く取材・編集・インタビューに携わる日々を送る。現在、脳が多幸を感じる食事や言葉に注目中。
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