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更新日:2026.10.31食トレンド 旅グルメ 連載

香港【The Chairman(大班樓)】と【Wing(永)】連載第87回

現代の香港を代表する2つの素晴らしいレストランを訪れました。【The Chairman(大班樓)】と【Wing(永)】です。今年最も注目されたこの2つのレストランから、香港が発信する新しい中華、とりわけ広東料理の最前線をレポートします。

TheChairman

アジアの頂点に立った香港の2軒、【The Chairman】と【Wing】

香港・セントラルの一角に建つ「The Wellington」。この一棟のビルに、いまアジアで最も注目される2軒の中国料理店が入っています。

【The Chairman(大班樓)】と【Wing(永)】です。

2026年3月に発表された「Asia's 50 Best Restaurants 2026」で、【The Chairman】が第1位、【Wing】が第2位に選ばれました。【The Chairman】は2021年以来、2度目のアジアの頂点です。

同じ建物にありながら、この2軒の料理哲学は驚くほど異なります。一方は広東料理の伝統を深く掘り下げ、もう一方は中国各地の食文化を現代のガストロノミーとして再構築します。

    香港の風景

香港はもともと世界有数の美食都市として、とりわけ高級広東料理の中心地として知られていました。新鮮な海産物、乾貨、熟練の火入れ、そして豪華な宴席料理。その豊かさは、長く香港の繁栄と重なってきました。

しかし、この十数年でアジアの食の勢力図は大きく変わりました。

バンコクではタイ料理の再解釈が進み、東京では日本料理の技術と哲学が世界のシェフに影響を与え、ソウルでは韓国の発酵文化を現代料理へと昇華する動きが加速しました。アジアの各都市が、それぞれの食文化を武器に世界へ発信する時代になったのです。

そうしたなかで、香港は何を世界に示せるのか。これは、世界有数の美食都市といわれてきた香港にとって、大きな課題でもあったと思います。その答えを、まったく異なるアプローチで提示しているのが、今回の【The Chairman】と【Wing】なのです。

まず【The Chairman】の料理をひと言で表現するなら、「広東料理の本質を追求する料理」でしょうか。
オーナーのダニー・イップさんは、もともとITビジネスで成功した経歴を持つ異色のレストラン経営者です。2009年にこの店を開き、長年のパートナーである料理長クォック・クン・トンさんとともに、広東料理の伝統を現代に生かす独自のスタイルを築いてきました。

広東料理の基本にあるのは、素材の持ち味を尊重し、その美味しさを引き出すこと。その哲学を守りながら、中国各地の食材や調理文化にも目を向ける。伝統のなかに埋もれていた可能性を掘り起こし、これまでにない料理を生み出し続けているのです。

今回、私がいただいたのは、広東料理を軸に雲南の食材や風味を取り入れた特別コースでした。なかでも松茸をはじめとするキノコの香りは圧巻でした。翌朝になっても、仙人が暮らす山のキノコたちの香りが、まだ身体のどこかに残っているような気がしたほどです。出された料理を何点か紹介しましょう。

    TheChairmanの料理

まず、炭火焼きの熟成鰻と桜海老、雞樅菌(シロアリタケ)のおこわです。小さな鮨のような形に仕立てられています。鰻の脂と炭火の香ばしさに、桜海老の旨味、キノコの風味が重なります。小さなひと口に凝縮された味わいが素晴らしく、これだけで何個もいただきたくなります。

続いて、3種類の蟹を異なる調理法で表現した料理。ズワイガニの蟹油ポシェ、花蟹の熟成中国酒蒸し、そして写真のノコギリガザミに10年ものの陳皮と豚挽肉を合わせた料理です。

それぞれの蟹が持つ甘みや旨み、身質の違いを、調理法と香りの組み合わせによって引き出していきます。豪華な蟹料理というだけではなく、同じ蟹という食材にこれほど多彩な表情があることを感じさせてくれます。これも【The Chairman】らしい料理でしょう。

    獅子頭鵞鳥(ライオンヘッドグース)の滷水仕立て

獅子頭鵞鳥(ライオンヘッドグース)の滷水仕立ても圧巻でした。獅子頭鵞鳥は中国南部で珍重される大型のガチョウです。潮州料理を代表する滷水(ロースイ)は、醤油や香辛料などを使った煮汁で食材をじっくり煮含める伝統的な調理法。その系譜にある料理ですが、大皿に盛られた姿は圧倒的な迫力があります。

    TheChairman

そして最後は、魚の頭、腸詰、キノコの土鍋ご飯。ダニーが自らお皿によそってくれました。土鍋の表面を覆う黒いキノコの存在感が印象的で、蓋を開けた瞬間から立ち上がる香りがたまりません。魚の旨味、腸詰の脂と風味、そしてキノコの深い香りがご飯に染み込んでいます。

雲南の食文化を取り込んだ今回の特別コースを象徴する一品で、まさに香りの爆弾でした。今回もそうでしたが、【The Chairman】は、華やかな盛り付けや奇抜な組み合わせで驚かせるというより、食材の香りと旨みを、時間をかけて静かに積み上げていくスタイルです。

しかし、その味わいには長い歴史を持つ中国料理の底力が感じられます。伝統を尊重しながらも、決して懐古的ではない。むしろ、広東料理の本質を突き詰めることによって、新しい料理の可能性を切り開いているのです。

そして、ダニーの存在もこの店の大きな魅力です。彼は常に笑顔で料理の説明をしてくれ、肩ひじ張らずに皆が楽しくテーブルを囲めるように気を配っています。料理そのものだけでなく、食卓を囲む時間の豊かさまで含めて、ひとつのレストランを作り上げているのでしょう。

成熟した王者の風格ですかね。

    The Chairmanのダニーシェフ

中国料理を現代ガストロノミーへ

一方、【Wing】の料理は、対照的な方向から中国料理の可能性を探っています。
シェフのヴィッキー・チェンさんは、フランス料理を中心にキャリアを積んだ料理人です。香港でフランス料理と中国の食文化を融合させた【VEA】を成功させた後、2021年に【Wing】を開きました。

この店は、フランス料理の技術とセンスを身に付けたシェフが、改めて自らのルーツである中国料理の奥深さに目覚め、その豊かな食文化を現代のファインダイニングとして表現しようとしているレストランです。

広東、四川、山東、江蘇など、中国各地の料理文化を広く見渡しながら、伝統的な調理技術や味覚を再解釈する。そこにフランス料理で培った緻密な構成力や、温度、食感、盛り付けへの現代的な感覚が加わります。

ただし、単純なフュージョン料理ではありません。

ヴィッキーは、フランス料理の皿に中国の食材を置くのではなく、中国料理の味覚や思想そのものを出発点にしています。ここが重要なのだと思います。

たとえば、中国料理における食感の豊かさです。柔らかさ、弾力、歯切れ、滑らかさ、とろみ。西洋料理とは異なる価値観で育まれてきた食感の文化を、ヴィッキーは極めて繊細に組み合わせていきます。料理が盛り付けられたときに幾何学的に見えるのも、単なるデザインではなく、食材や食感の構成そのものから生まれているのではないかと思わされます。

また、発酵調味料や乾物、上湯などが持つ複雑な旨みを生かしながら、味わい全体を重くしないテクニックも今っぽい。中国料理の力強さを失わずに、驚くほど軽やかで洗練された料理に仕上げています。

    Wingの料理

料理をいくつか見ていきましょう。

まず、牡蠣と黄金ピータンを組み合わせたスターター。前菜からして、すでに美しすぎますね。

大皿の青花磁器に、牡蠣とピータンが幾何学的に配置され、濃いソースが鮮やかなコントラストを描いています。中国料理の伝統的な食材が、まるで現代アートのような表情を見せています。

しかし、単に美しいだけではありません。牡蠣の海の旨みとピータンの独特なコク。中国料理ならではの味覚の組み合わせが、しっかりと料理の中心にあります。

    Wingの料理

    Wingの料理

そして、ナマコの春巻き(Sea Cucumber Spring Roll)。これも印象に残った料理です。

バリッとした薄い皮を噛み破ると、中からねっとりとしたナマコの食感が現れます。パリパリとねっとり。この対照的な食感の組み合わせがたまりません。ナマコは中国料理では古くから珍重されてきた高級食材ですが、その魅力は単なる希少性や価格ではなく、独特の食感にもあります。

ヴィッキーは、その食感を春巻きという親しみやすい料理のなかで際立たせています。中国料理が大切にしてきた食感の文化を、実に現代的に表現した一皿ですね。

    Wingの料理

次は、鶏の澄んだスープと松茸。薄くスライスした松茸と巻貝に熱い清湯を注ぐと、一瞬にして松茸の香りが広がり、食卓がおいしさに包まれます。

スープの味わいのなかに、鶏の旨みと松茸の香りが重なります。中国料理のスープが持つ奥深さを、これほど軽やかに、しかも華やかに表現できるのも、ヴィッキーならではのセンスかもしれません。

    Wingの料理

そして、この店のスペシャリテのひとつ、アラスカキングクラブを使った蟹料理。大きな赤い蟹の甲羅、整然と並ぶ蟹肉、青花磁器。もう、これは見ただけで美味しそうですね。

蟹の甘みや旨みを生かしながら、盛り付けには驚くほど緻密な美意識が感じられます。豪華な食材を使った中国料理でありながら、見せ方は極めてモダンです。

ヴィッキーの料理が魅力的なのは、洗練されたファインダイニングでありながら、その美しさのなかに、しっかりと食べる喜びが担保されていることです。フランス料理の技術を知り尽くした料理人が、改めて中国料理の豊かさを発見し、その楽しさを料理にしている。そんな印象を受けます。

コースを食べ終えた私が、まだもっと食べたいと言うと、ヴィッキーはすぐに厨房に向かい、焼きそばをつくってきてくれました。こういう対応もうれしいですね。

    Wing

香港から始まる、中国料理の新しい時代

この2軒がアジアの第1位と第2位を占めたことには、ランキング以上の意味があるように思えます。

高級中国料理といえば、フカヒレやアワビ、ナマコなどの高級食材が料理の価値を象徴してきたことも理解できます。もちろん、それらの食材には長い歴史と、それを生かすための高度な調理技術があります。

しかし、希少で高価な食材を並べるだけでは、もはや料理人も客も満足しない時代になっているのではないでしょうか。素材の背景、土地の食文化、伝統技術、香りや食感の構成、そして、その料理をいま食べる意味。そうした価値が、料理の中心へと移りつつあります。

【The Chairman】は、広東料理の伝統のなかにある知恵を深く掘り下げ、素材の持ち味を最大限に引き出すことで、新しい美味しさを生み出しています。
一方、【Wing】は、中国各地に蓄積された食文化を自在に行き来し、現代的な感性と技術によって、新しい料理へと組み立てています。
一方は引き算の美学を感じさせ、もう一方は多彩な要素を調和させる構成力で魅了する。

そして、料理を支える人物像も対照的です。

ダニーは長年かけて育ててきたチームとともに、広東料理の伝統と食卓の豊かさを追求しています。ヴィッキーは料理人として自ら厨房に立ち、中国料理の新しい表現を探り続けています。
しかし、方向は異なっても、両者に共通しているのは、中国料理に対する強い誇りです。西洋のガストロノミーに近づくことを目標にするのではなく、中国料理が持つ独自の価値を、世界に通用する表現へと高めているのです。

これは、いまアジアの各都市で起きている食文化の進化とも重なります。それぞれの土地に根ざした料理が、自らの歴史や文化を見つめ直し、世界へ向けて新しい価値を発信しているのです。

2026年、香港の2軒がアジアの頂点に立ちました。それは、香港が再び美食都市として注目を集めたというだけの話ではないと思います。

中国料理が、西洋の価値観を追いかけるのではなく、自らの文化を拠り所に、新しい黄金時代へと踏み出している。そんなことを、香港の同じビルにある2つの食卓から、強く感じたのでした。

この記事を作った人

小西克博/ヒトサラ編集顧問

北極から南極まで世界100カ国を旅してきた編集者、紀行作家。
◆
大学卒業後に渡欧、北極から南極まで約100ヶ国を食べ歩く。共同通信社を経て、中央公論社で「GQ」創刊に参画。2誌の創刊編集長、IT企業顧問などを経て、現職。

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